2014年度

第1回研究会 (2014.1.18)

 思い出の南京パネル展―南京での教師生活9年を終えて―(曽田和子)  

第2回研究会(2014.2.15)

 知る権利と学校図書館の役割―『はだしのゲン』閉架問題から考える―(永井悦重)

第3回研究会(2014.3.15)

 「国民受忍論」の論理に、どう立ち向かうか―直野章子「受忍論」論文をテキストに―
  (発題:難波達興)

2013年度

第1回研究会(2013.1.26)

 袴田事件とは―その問題点と現状(岡山冤罪を考える会主催)へ参加

第2回研究会(2013.2.9)

 父の戦死の真相を追って (中元輝夫)

第3回研究会(2013.3.23)

 自民党の国防国家構想(小畑隆資) 

第4回研究会(2013.4.27)

 大地の青春―元満蒙開拓青少年義勇軍杉山勝己の生きてきた道―(青木康嘉)

第5回研究会(2013.7.13)

 『岡山の記憶』第15号合評会

第6回研究会(2013.8.17)

 戦争遺跡の大切さを地域・日本・世界から考える
   :第17回戦争遺跡保存全国シンポジウム 岡山県倉敷大会へ参加
   (大会実行委員会主催)

第7回研究会(2013.9.14)

 岡山市の戦災資料収集と岡山空襲展示室開設について(猪原千恵)

第8回研究会(2013.10.5)

 座談会:戦争をどう伝えるか―映画「風立ちぬ」を切り口として―  

第9回研究会(2013.11.9)

 「知られざる秘密保護法案の秘密」(井上正信、岡山弁護士会主催)へ参加

2012年度

◎講演会(2011.12.4)

―ドイツにおける「もう一つの過去の克服 」―

・講師:香月恵里(かつき えり)さん(岡山商科大学准教授)
・内容

ドイツのポーランド侵攻によって勃発した第二次世界大戦は、世界で数千万人もの死者を出し、ドイツ国内でも60万人ともいわれる民間人が爆撃戦の犠牲となった。その死因の多くは、イギリスで科学の粋を結集して作られた火災兵器による焼死、窒息死であったという。しかし、こうした死者たちの苦しみについて公に語ることは、ドイツ国内では戦後半世紀以上もの間、一種のタブーであった。2002年に出版された歴史書『火焔-ドイツにおける爆撃戦争』は、火災兵器の成立史とその被害の状況を、ドイツ的徹底性をもって描いた恐怖のパノラマである。この本はベスト・セラーとなったものの、同時に国内外から激しい批判に晒されることになった。
本講演では、ドイツにおける、ナチズムの反省と国際社会への復帰という「過去の克服」の過程を追うとともに、1990年代から顕著になってきた「もう一つの過去の克服」、つまり、犠牲者としてのドイツ人を認識し追悼しようという運動の発生とその現在までの歩みについて報告したい。


◎第一回研究会(2012.2.18)

地方自治体の公文書管理・保存について

・報 告 中村 誠さん(岡山大学大学院社会文化研究科教授)
・内容

2009年6月に「公文書等の管理に関する法律」が制定され、2011年4月から施行されています

公文書の適正な作成・管理・保存がなぜ重要なのか、公文書管理法制定を提言した政府の「公文書管理の在り方等に関する有識者会議最終報告」(2008年11月4日)の「基本認識」において、次のように述べています。
「民主主義の根幹は、国民が正確な情報に自由にアクセスし、それに基づき正確な判断を行い、主権を行使することにある。国の活動や歴史的事実の正確な記録である「公文書」は、この根幹を支える基本的インフラであり、過去・歴史から教訓を学ぶとともに、未来を生きる国民に対する説明責任を果たすために必要不可欠な国民の貴重な共有財産である。」
 これまでの公文書管理に関する問題点、地方自治体の公文書管理の在り方について、皆様のご経験、ご意見を伺い、考えていきたいと思います。

◎第二回研究会(2012.3.31)

「安全神話」とマス・メディア ―東電福島原発震災―

・報告 荒武一彦
・内容

 

“フクシマ震災”の素因は何であったのか。いろいろな視点からの指摘があるだろう。そこで、マス・メディアの角度に絞ってアプローチを試みたい。
数多くある原因の中でも、元凶とされても逃れられないのが「原発安全神話」であろう。
“原子力ムラ”と称される原発容認・推進・受益の巨大かつ隠然たる勢力が声高に叫び,その旗を振り、“原子力ルネサンス”の妄想を撒き散らして来た。その結果、国民、国土に齎したものは、30年、否、百年、千年、万年にも及ぶ放射能汚染という取り返しのつかない忌まわしい惨状である。
振り返って、「十五年戦争」。「神州不滅」「聖戦必勝」という「戦争神話」が、あらゆる社会チャンネルを利用して、鬼畜米英・支那膺懲に日本の老若男女を駆り立てたのである。そして、行き着いたのが「昭和20年8月15日」であった。いずれも「国破る」である。
" 原発震災と十五年戦争の神話構造は、全くの相似形である。この神話構築・確立に、マス・メディアがどのように関わったのか。この間明らかになった資料、報告等を通じて、このテーマを検証したい。


「犠牲のシステム」をどう乗り越えるか

『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書)を読み解く

・報告:難波達興さん
・内容:

3・4・5月は、「東日本大震災」の連続シリーズである。今や震災・原発の意味を考察することには、多様な切り口がある。前回(3月)の「メディア」につづいて、今回はとりわけ福島原発事故を中心に、「靖国」の論理にもつながる「犠牲のシステム」をキー・ワードとして考える。福島と沖縄を重ねて、無意識の「植民地主義」という分析視角が提起される。あわせて、「天罰論」や「天譴論」のもつ問題点も論点の一つとなる。「地域とは何か」という論点も加味しながら、それぞれのもつ東日本大震災への想いを出しあいたい。
「植民地主義」との関連で、原発が差別を構造的に再生産している事例を、原発大国アメリカにとり、現代においてアメリカ先住民が原発によって直面している困難や課題にもふれてみたい。人種、階級、国籍、ジェンダ ーなどの理由で、高いリスクを負わされる不平等や差別を乗り越え、安全に暮らせる環境と、それを可能にする公正な社会を追究する概念としての「環境正義」についても言及する。福島・沖縄という軸に、アメリカ(先住民)という補助線を引いてみたい。
 なお、共通テキストとして、高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書、2012年1月刊、777円)を読んできていただければ幸いである。


報道で知っていた・・・では収まらぬ“衝撃”

~東日本大震災 ボランティアに通って~

・報告:橋本省吾さん
・内容:
2011年3月11日に発生した東日本大震災から約2か月がたった昨年5月、岡山県社会福祉協議会が募集した震災復興支援ボランティアで宮城県多賀城市へ行った。それ以来、6,7,8,9月と東松島市へボランティアのために通った。この頃まではいわゆるガレキの片付けが多かった。さらに12月と翌年1月には岩手県陸前高田市で流失したカキイカダづくりを、3月27日からは大槌町吉里吉里海岸で養殖ワカメの加工手伝い等をやらせてもらった。
 今なお茫然とするほどのガレキの山と廃墟となった市街地等を目前にして、震災と津波の激甚さに言葉もないが、そんな中、被災した人たちは生活再建に向け確実に動き始めていることも現地へ通いつめるたびに実感した。


国家改造計画の現段階

―『日本改造計画』から『体制維新―大阪都』へ―

・報告:小畑隆資さん
・内容:
日本国憲法を敵視する国家改造計画が政治過程に登場し具体化が試み始められたのが1990年代であり、その起点に小沢一郎の『日本改造計画』(1993年)がある。その後の政治過程は、激しい政権争いを繰り広げながら、一見、「二大政党」を現出しているかに見えて、実は、小沢「計画」の具体化の主導権争いに過ぎない。
 本報告は、まずはじめに、その立役者・小沢一郎が、念願の政権交代内閣・鳩山由紀夫政権の下で幹事長として権力掌握を試み、矢継ぎ早にうちだした様々な諸施策を、彼の国家改造計画の実現過程として描くことを試みる。
 だが、この試みは、菅内閣以降の反小沢シフトのなかで1年も経たないうちに挫折する。鳩山首相・原口総務相・小沢幹事長体制の地域主権改革推進において大きな役割を担った一人が橋下徹・大阪府知事(当時)である。「大阪都」構想という「下から」の形をとった新しいスタイルと手法で、小沢の国家改造計画を継承しようとするのが、橋下徹・大阪維新の会である。昨年4月の大阪府議会・市議会選挙での圧勝、11月の大阪府知事・大阪市長のダブル選挙勝利でほぼ大阪を制覇した橋下・維新の会は国家改造のための権力奪取をめざして江戸(国会)への進撃の準備を整え始めている。本報告のいま一つの課題は、小沢「計画」との対比で、『体制維新―大阪都』(文春新書、2011年)と「船中八策」(2012年2月)の検討を通して、橋下・維新の会の国家改造計画を明らかにすることである。


二宮金次郎像と岡山の報徳運動

・報告:森元辰昭さん
・内容:
岡山の近代史研究や自治体史の編纂に携わりながら、我ながら忘れてきたことが多い。その一つが「金次郎像」についてである。小学校に設置された金次郎像については、教育史でもまた自治体史の編纂でも話題になることが少なかった。それ自体が「史学史」の対象となるが、小学校422校にアンケート調査を行い、その存在を確認。「ある」との解答を得た174校(回答数307校)と未回答校・廃校を悉皆調査することにした。その結果、421校中229体(約54%)が現在の小学校に現存、廃校・その他を加えると280体が確認された。この材質は、備前焼232体で83%、石像29体(10%)、セメント7体(3%)、この他青銅4体、木造2体となっている。 金次郎像については誤解も多い。「文部省が造らせた」「自分が見た像が全て」などがその代表的なものであろう。結論から述べると、すべて寄贈されたものである。寄贈者は、1.成功体験者、2.戦死者の遺族、3.地元有力者・名望家、4.卒業生(青年団)、校長等教職員・児童、5.県知事表彰の寄付金(中山小)、尊徳像が贈られた(大井村弓矢・鉾立村直添の各農家組合)。
ほとんどの小学校に設置された金次郎像「負薪読書図」は、尋常小学校「修身」で、「孝行」「勤勉」「兄弟助け合い」「学問」などの徳目を学んだこと、日露戦争以後の「報徳運動」がその背景にある。今回の報告は、金次郎像設置の経過とその背景となる報徳運動について検討する。 。


関西中学校時代の里村欣三

・報告:青木康嘉さん
・内容:
「里村欣三生誕110年記念誌」への寄稿を日生町の元町長である田原隆雄会長から5月はじめに依頼され、改めて関西高校の資料室や図書館にある『関西学園百年史』や関西中学校丙申会発行の『会報37号~42号(現みかど)』を読み返した。何しろ百年近く前のことで、歴史的な時代として受け止めていく必要を感じていた。しかし、「会報」を丁寧に読んでいくと私の知った名前が出てくる。私が関西高校在学時代にいた理事長や校長や副校長、また英語の先生や図書館長は、里村欣三と同世代だったことがわかった。ペンネームである里村欣三ではなく、関西中学校時代は本名の前川二享(まえかわにきょう)として登場する。「大正」と言われた時代の関西中学校の風景を書くことによって、そこで学んだ前川二享の姿に迫った。当時の関西中学校の規模や進路実績、山内佐太郎校長の教育方針などを紹介した。関西中学校の前川二享は、「会報41号」で小説『土器のかけら』や短歌15首や俳句5首を発表している。また、1918年11月30日に山内佐太郎校長が退任したのをきっかけにおこった関西中学校ストライキ事件でその首謀者の一人として諭旨退学となった前川二享の背景やストライキ事件がなぜおきたか学校の経営危機との関係を解説する。


モスクワ放送日本語課主任アナウンサーとなった元日本兵・清田 彰

・報告:坪井貞夫さん
・内容:
第二次大戦末期、満州でソ連軍の捕虜となり、シベリア抑留生活を過ごした後、ソ連に留まり、最終的にはモスクワ放送日本語課主任アナウンサーとして活躍された清田彰氏のことを紹介したい。 清田彰氏の両親は倉敷市鳥羽の出身であるが、幼少時代を岡山で過ごしている。清田彰氏の略歴は以下の通りである。
1922年9月21日、父登、母文野の長男として、岡山県倉敷市松島で生まれた。本籍は倉敷市鳥羽、倉敷高校のすぐ南隣に清田邸があった。父は岡山市役所の職員、母は薬種商をしており、岡山市門田屋敷のあたりに住んでいた。清田は岡山県立師範学校附属小学校卒業、岡山県立商業学校入学、在学中六高主催の英語弁論大会で優勝。満州電信電話機械会社に就職、同社より学費給費生として 山口高等商業学校に入学。学徒出陣で、岡山工兵隊入隊、姫路の歩兵隊を経て、満州の新京経理学校入学。同校卒業後、主計見習士官として公主嶺の特殊部隊に配属される。戦争となり、ソ連軍の捕虜となる。シベリア抑留生活を終えて、ソ連に残留。ハバロフスク放送局勤務。中学校卒業。モスクワ放送局に転勤。1952年ソビエト市民権取得、ロシア女性(タマラ)と結婚。一人娘レーナさん誕生。日本語課課長として翻訳者、アナウンサーとして活躍された。この間、片山やす氏(社会主義の父・片山潜の娘)、有名な女優・岡田嘉子氏とも同じ職場で仕事をされ、岡田さんが亡くなられた時、葬儀委員長を務められた。「ロシアの声」などの日本向け放送の他、スポーツ中継も担当され、日紡貝塚女子バレーボールチームを「東洋の魔女」と呼び、宇宙飛行士の「宇宙遊泳」という新語を作るなど、ロシアで著名なアナウンサーとして活躍された。1988年にはロシア国家最高の栄誉賞の一つ「民族友好勲章」受賞されている。
昨年4月16日、89歳で逝去。生前交流があったので、去る4月14日に同氏を偲ぶ会を開催した。この会の模様をDVDで紹介します。また、この時の下山宏昭氏(元岡山放送取締役報道制作局長)による講演「清田彰氏の生涯と歴史的背景」も合わせて紹介します。


◎案内:能勢健介さん(『岡山の戦跡』執筆者)
[コース]

①陸軍墓地 (岡山市北区津高東原)
  第17師団創設(1907)以降、日中開戦(1937)初期までの戦死者分骨墓517基が配列されている。その後、戦死者の増加等により以後は合祀の碑となっている。墓石や墓域の大小に“死後も生きている階級"を見る。

②片山兵曹長の墓 (岡山市北区御津矢知)
  対米戦のへき頭(1941,12,8)、ハワイ真珠湾特別攻撃隊の一員として「特殊潜航艇」により湾内突入し、戦死。時に23歳。 “九軍神"の一人として太平洋戦争最初の“軍神"となった。墓地内には戦死した二人の墓が並んでいる。「御津郷土歴史資料館」に関係資料がある。

③福渡・建部の兵器格納庫跡 (岡山市北区建部町)
  戦局が厳しくなった1944年頃から行なわれた武器・弾薬類疎開の一つ。当時40か所以上の横穴が掘られたが、崩壊等で現認が難しい。「三軒家弾薬庫分室」の建物、建部の兵器類倉庫を見ることができる。終戦直後、野積みされた弾薬が爆発、死者も出るという惨事もあった。

④片山潜記念館 (片山潜1859~1933, 久米南町羽出木)
  日露戦争のさなかの1904年、オランダで開かれた第二インターナショナルで、反戦平和を訴え、日本代表としてロシア代表プレハーノフと握手したことで知られる,社会主義運動の指導者。記念館に関係資料、近くに生家、母と兄の墓、「生誕百年記念片山潜の碑」がある。


孫崎亮著
『日本の国境問題―尖閣・竹島・北方領土―』を読む

いまや表舞台に出てしまった「国境問題」は、近隣諸国とのあり方について真剣にそして否応なく取り組むことを私たちに求めています。
そこで第9回研究会では、「国境問題」についてこの本を糸口に討論したいと考えています。はじめに難波達興さんが本を紹介するとともに、次のような問題提起を行なう予定です。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

単に「平和的な解決を」という抽象的な議論に終わらないために、井上清に依りながら、敢えて「尖閣諸島の帰属は中国である」との「挑発」を投げかけてみる。「反日デモ」の意味や「日中国交回復40周年」の意義、必要に応じて、かつて本センター年報に寄せた書評:朴裕河(パクユハ)『和解のために-教科書・慰安婦・靖国・独島-』(平凡社、2006年)のなかの「独島(竹島)」部分、さらに他国の領土紛争や帰属問題にも触れ、尖閣諸島問題をより広い(世界史的)文脈から考えたい。また、テキストを読めば、この問題における「アメリカ要因」が必ず大きな論点になると思う。

孫崎亮著『日本の国境問題 ─尖閣・竹島・北方領土』
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480066091/


◎報告:太田健一さん
 ◎内容

野崎台湾塩行は、日清戦争によって日本が領有することとなった台湾において、国内最大の製塩家であった野崎家(現倉敷市児島、当時の当主野崎武吉郎)が設立した企業体であった。その歴史は、開発のための実地調査が開始された明治30年に始まり、塩行が開所した明治33年を経て、昭和12年2月の閉行・撤退に至るまで約40年間を有する。
 この間、塩行は二期に亘って約180町歩の塩田を開発し、台湾総督府や現地住民の協力を得て台湾塩業を推進してきた。今回の小生の仕事は、矢内原忠雄『帝国主義化の台湾』を念頭に置き、野崎家にのこる史料を利用しての台湾塩業に関する歴史学的・経済史的研究である。
 戦前期、野崎家に代表される地方財閥の動向、植民地進出の動機とその経過(特にその特異性)、中央財閥との対抗など、多くの検討課題を有していると思われる。

   
■サブタイトル:近代日本塩業・台湾塩業
■発行:ナイカイ塩業株式会社
■制作・発売:吉備人出版
■頁数:上巻(口絵16頁+本文1294頁)
下巻(本文1342頁)
■定価:本体17000円+税
■発行日:2010年7月17日

2011年度

◎講演会(2010.12.5)

在日韓人社会と日本

・講師:賈 鍾壽(カ・ジョンス)さん、(就実大学教授)
・内容

日本には韓国(朝鮮)国籍を在日韓人が60万人以上も住んでいる。他にも日本国籍を持つ韓国(朝鮮)系日本人が約40万人いる。終戦から60 余年、在日韓人が住んでいる日本も大きな変化をし、実に重要な時期を迎えている。
福祉先進国でありながらも人権後進国といわれる日本は、1976年国際人権規約を批准し、1981年に難民条約、人種差別撤廃条約を批准し、 共生社会の人権先進国に向かっている。日本人が手をつないで共生社会を建設する人びとは在日韓人である。共生社会の建設の相手が在日韓人であることを発見するのに日本は長い歳月が必要であった。
この60年は在日韓人の受難の歴史であり、日本民族の苦悶の歴史であった。在日韓人の歴史を、1945~1960年代を第1世の時代、 1970年代を第2世の時代、1980年代を第3世の時代、1990年代以降を第4世的世界の時代と4つに分けて分析を行い、隣人である在日 韓人社会を通して、真の共生社会を目指す道を探る。


◎研究会 ▽第1回研究会(2011.1.22)

「徐州戦」はこうして記録された―里村欣三と棟田博の戦記小説―

・報告:劉 迎さん
・内容

 南京占領後、中国軍の撃滅を狙って開始された「徐州戦」(1938)は、政治的においても軍事的においても日中戦争の大きな転換点となるのみならず、日本文学にも大きな転機をもたらし、「戦争文学」と呼ばれるものが確立された。
「徐州戦」をめぐる言説は、白鳥省吾の長詩「徐州陥落」をはじめとして歌や小説が多く作られたが、その頂点をなした火野葦平の『麦と兵隊』(1938)は、戦勝に熱狂する銃後の国民に絶大な支持を得て120万部の大ベストセラーとなった。
火野の成功に刺激されて里村欣三は『第二の人生』(1940)『徐州戦』(1941)を書き、棟田博は『分隊長の手記』(1939)『台児荘』(1942)を発表して一躍注目された。二人は同じく岡山県の出であり、ともに「赤柴部隊」と呼ばれる岡山歩兵第十連隊の一員として中国戦場に赴き、津浦戦線、黄河戦線、そして徐州作戦と中国各地を転戦した。作品の中で彼らの眼は始終日本兵の姿に注がれており、日本兵の健気で勇敢な戦争行為と日常的な「人間性」を強調した。のちに里村は戦記作家としての「第二の人生」を歩みはじめたが、太平洋戦争に従軍してフィリピンで戦死した。一方、棟田は帰還作家として活躍し、戦中戦後を通して「徐州戦」での自らの戦績を語り続けていた。
今回は里村欣三・棟田博の戦記小説についての検討を通じて、これまで知られなかった「徐州戦」の真実を明らかにするとともに、戦争文学研究のあり方を考えてみたいと思う。


◎第2回研究会(2011.2.19)

「自由」と「規制」 ―小沢一郎著『日本改造計画』の検討―

・報告:小畑隆資さん
・内容:

 小沢一郎の『日本改造計画』(講談社、1993年)は、90年代以降のいわゆる「新自由主義改革」の烽火となり、今なおそのレールの上を現代日本の政治は走っていると評しても過言ではありません。それは、「政治的リーダーシップの確立」(「政治主導」!)、「地方分権」(「地域主権」!)、「規制の撤廃」(「規制緩和」!)の三つの改革をうたい、その「究極の目標」は「個人の自立」=「自由な個人」と「真の民主主義の確立」にあると宣言しています。アメリカのグランド・キャニオンには「柵」がない、日本だったらすぐ危険だから柵をつくれと大騒ぎするだろう。日本では「大の大人が、レジャーという最も私的で自由な行動についてさえ、当局に安全を守ってもらい、それを当然視している」。「自ら規制を求め、自由を放棄する」とは何と情けないことか。日本人よ、「自由な個人」たれ、「自立」せよ。このような本書冒頭の議論が、その後の「新自由主義的改革」のエネルギーを動員してきたことは間違いないでしょう。
だが、こうした自由についての理解は、何かおかしい? 本報告は、そのおかしさ、もっと言えば、その間違いを、日本国憲法の保障する基本的人権の視点から、とりわけ、「自由」と「規制」との関連で考察いたします。
本センターは、「自主規制」を研究テーマの一つに掲げています。「自主規制」は「不自由」ですが、では「規制緩和」は「自由」かというとますます閉塞感が増大してきているように、これまた、たいへん「不自由」です。「自由」を守り拡大する「規制」について、考察することが本報告の課題です。

 

◎第3回研究会(2011.3.26)

那須軍曹、戦場の日々 ―日中戦争の中の郷土兵―

・報告:青木康嘉さん
・内容

 那須慶江さん(85歳)と長尾冨佐恵さん(60歳)母子に出会ったのは、昨年夏の中国東北部の跡地を訪ねる旅だった。特に那須さんは、三人の兄がノモンハンやビルマやパラオなどで戦死されていて、「慰霊の旅」だった。旅先で色々話していると、夫の那須四郎も復員したけど、「北支や中支で約6年間苦労」された話に及んだ。1995(平成7)年に亡くなったが、戦争体験記を書き残していたので、2000(平成12)年に『想い出の記』(手帖社)として出版された。私は、一冊いただいて読んでみた。長女の冨佐恵さんから、「先生、私らにはこの戦記の内容がよく分からないから解説してほしい」と依頼を受けていた。
那須四郎は、大正10年生まれ、昭和16年に第54聯隊に入隊し、6月に包頭付近の安北で治安作戦に参加し、その後昭和19年から河南作戦、洛陽攻略戦、老河口作戦などに参加し、陸軍軍曹として終戦を迎えた。復員は、昭和20年12月。この約6年間の戦争体験記録を、私なりに分析していきたい。


◎第4回研究会(2011.7.3)

亀島山地下工場 ―調査・研究の現状と課題―

・報告:上羽 修さん
・内容

全長2キロにおよぶ亀島山地下工場は、岡山県内最大級の戦争遺跡である。20数年前、調査・保存・公開をモットーに 「亀島山地下工場を語りつぐ会」が作られた(一時休止したので3年前に再建)が、その間に蓄積された調査の内容は多様で、ようやく亀島山地下工場とそれを取り巻く全貌が分かけている。
ここでは、調査・研究の成果を整理し、それらが日本国内の軍需地下工場とそれを取り巻く状況の中にどのように位置づけられるのかを展望する切っ掛けとしたい。


第5回研究会(2011.7.23)

太平洋の孤島に取り残された日本陸軍将兵の記録

◎内容
(1)ヤップ島(カロリン諸島)  報告者;上羽 修さん
「後退をくり返すだけで、何処で決戦をやるのか。今度は、米軍が必勝だと言わぬよう研究せよ」。
反撃に転じた連合軍に日本軍が敗退するなかで、1943年8月5日、このような昭和天皇の言葉を杉山参謀総長は受けた。同年9月30日の御前会議は、絶対確保すべき要域「絶対国防圏」を設定した。
サイパン島やトラック島など戦略的に重要な日本軍の拠点が米軍の猛攻で壊滅していくとき、同じ「絶対国防圏」内の中部太平洋にありながらヤップ島もパガン島も米軍は上陸せず、いわば取り残された島であった。
ヤップ島での「戦闘」体験を聞き取りした録音がある。そこから流れる日本軍将兵の心情に思いを馳せたい。
(2)パガン島(マリアナ諸島)  報告者:武田婦美さん
先日(6月23日)の読売新聞に「泰緬鉄道工事で通訳」の旧日本陸軍憲兵隊兵士永瀬隆氏の逝去が報じられていた。享年93歳。我が父と同年齢である。「老兵は消え去るのみ」か、私たちはまたここに太平洋戦争を知る貴重な語り部を失ってしまった。
私の父の方は今老人ホームで長い生涯の最期のひとときを静かに過ごしている。その彼がまだ元気だった頃、「わしを戦争体験を何かにまとめてくれんか」と、言ったことがある。そのときは「とてもできない」と断ったが、実家の整理をしているうちに出てきた軍隊関連の手紙や戦友の手記などを読んで、父の軍歴に興味をもつようになった。それをまとめたものが「岡山の記憶」第13号に掲載の「かくして陸軍山砲隊武田曹長、生還せり」というエッセーである。
パガン島で自給生活をした我が家の老兵をもとに、「戦争」とはなにかを率直に語り合いたい。


第6回研究会(2011.9.24)

"壁の物言う世" ―戦時下「防諜社会」

◎報告:荒武一彦さん
◎内容:

「防諜社会」とは、耳慣れない言葉かもしれないが、秘密や情報の保護体制が整備・確立された社会を意味する。防諜にしろ監視にしろ、少なくとも国家とかが形成され、ある種の政治権力みたいなものが誕生すると、統治行為の一つとして必然的に発生するものである。従って、日本でも、古来からずっと現代に至るまで、いろんな形で「防諜」の社会システムは存在して来た。
中でも、十五年戦争期の日本社会を特徴的に性格づけする呼称でもある。国体護持、聖戦完遂の必要条件として、徹底した機密保持体制が構築された。結果、「壁に耳あり、障子に目あり」の社会となり、民衆は「物言えば唇寒し」の息苦しい日常生活を強いられた。そして、苛酷な戦争へ駆り立てられていったのである。
この時代の防諜法規の系譜を辿るとともに、具体的な取締事例を出来る限り多く紹介し、当時の社会の実相を顧みることにする。
「防諜社会」は、現在言われる「監視社会」と多くの部分で通じ合っている。いろんな分野で「戦前のコピー化」が進行する昨今、このテーマも見逃せない一つだと思っている。


第7回研究会(2011.10.23)

中国側から訪ねたノモンハン戦跡地の旅

◎報告者 守屋八束さんら旅行参加者と青木康嘉さん
◎内容

 1.日程 8月30日、岡山―上海―北京―ハイラル泊 8月31日 ハイラル泊
9月 1日 ハイラル泊 ノモンハン跡地・記念館見学
9月 2日 ハイラルー北京泊
9月 3日 北京―上海―岡山
2.事前学習会:講師 青木康嘉
3.ノモンハン戦の概要
4.ノモンハン戦の地図上の位置
5.参加者の報告・感想


・第8回(10.31):安保改定半世紀―主権放棄と対米従属の軌跡―  (中尾元重)

2010年度

◎講演会(2009.12.6)

坪田譲治文学における「戦争」

―「支那」の子どもたちをどう描いたか―

報告・劉 迎さん(中国徐州師範大学特任教授・文学博士)


◎研究会 

南京の暮らし あれこれ      (曽田和子)

・第1回(1.6) ・第2回(3.27):「横浜事件」判決と弾圧事件の今後
(1)細川嘉六「世界史の動向と日本」(『改造』)を読み解く  (難波達興)
(2)弾圧の構図  (荒武一彦)
(3)治安維持法犠牲者の法的な救済にむけて  (小山博通)
・第3回(4.24):植木枝盛の「自由」論  (小畑隆資)
・第4回(5.22):倉敷市所蔵近代行政文書「朝鮮・満州ニ於ケル徴兵業務機構一覧表
郷内村兵事係」について  (上羽 修)
・第5回(5.29・30):憲法を暮らしに活かし、住みよい地域社会に全国地域人権運動総連合主催の地域人権問題全国研究集会への参加
・第6回(7.24):『岡山の戦跡―近くの戦跡を訪ねてみよう―』を出版して   (能勢健介)
・第7回(8.28):韓国併合100年―「植民地責任」を中心に―  (難波達興)
・第8回(9月25日):   『岡山の記憶』第12号の合評会
・第9回(10.31):安保改定半世紀―主権放棄と対米従属の軌跡―  (中尾元重)

2009年度

◎講演会(2008.12.7)

「日本人はなぜ謝りつづけるのか 日英〈戦後和解〉の失敗に学ぶ」

報告:中尾知代さん(岡山大学大学院准教授)


   

◎研究会
第1回(2009.1.24):『陣中日誌』研究
―第五師団第一建設輸卒隊―            (青木康嘉)
第2回(2009.3.21):六十年前の倉敷・水島   (土屋篤典)
~海軍管理下の航空機生産下請軍需工場と学徒勤労動員を追う~
第3回(2009.4.24):岡山市立小学校内の慰霊碑建立問題
(1)幡多小学校慰霊碑問題への取り組み   (藤田 滋)
(2)箕面忠魂碑慰霊祭違憲訴訟と信州大学構内神社訴訟   (上羽 修)
(3)戦没者をどう慰霊するか
―「幡多」慰霊碑のもつ問題点をめぐって―   (難波達興)
第4回(2009.5.16):田母神問題の政治学
―「憲法」と「国家」―   (小畑隆資)
    第5回(2009.6.27):シリーズ「自主規制」①
紹介「国民徴用援護事業の展開過程」  (上羽 修)
第6回(2009.7.18):森近運平の生涯と農学校の歴史に見る戦争   (福田計治)
第7回(2009.8.29):『南京事件70周年 国際シンポジウムの記録』紹介  (上羽 修)
第8回(2009.10.17):シリーズ「自主規制」②
(1)「自主規制」概念の検討     (小畑隆資)
(2)"表現の自由"と「自主規制」   (荒武一彦)

2008年度

第1回研究会(2008年1月13日)

「第6回 日韓歴史教育シンポジウム」への参加

◎主催:歴史教育者協議会日韓交流委員会/岡山県歴史教育者協議会
◎内容:歴史の事実や歴史認識の問題を日本と韓国の間で交流します。両者のつきあわせによって、歴史認識の違いや共有できる部分を明らかにしていく試みです。韓国から35人が来岡!!
授業実践報告
・「古代吉備と朝鮮―古墳時代の渡来人―」(村田秀石、岡山・玉野光南高)
・「日本の開国・朝鮮の開国」(魚山秀介、東京・帝京高)
・「歩いて日本列島まで―韓国の中学生が考えた原始古代の韓日交流―」
(イ・ギョンフン、韓国・ヒヨヤン高
) ・「渡来人と岡山」(パク・ソンギ、韓国・ハナム高)
昨年、韓国の全国歴史教師の会との5年間の交流活動の成果を『向かいあう日本と韓国・朝鮮の歴史前近代編』という本にして、日韓両国で出版しました(日本語版は、青木書店)。
第6回日韓歴史教育シンポジウムは、この本を教材にした歴史教育の授業実践をテーマにして行うことになりました。シンポジウムでは、日韓双方から授業実践報告を行い、参加者で検討します。


岡山の十五年戦争を考える研究集会(2007年12月2日)

報告1.総動員体制研究の課題-雑感-          小畑隆資
岡山・十五年戦争資料センターが発足して来年で10周年を迎えます。その研究活動の成果は毎年の『岡山の記憶』に発表され、それらの集約の一つとして『総動員の時代』が刊行されました。また、来年夏には、10周年を記念して、「総動員」を考える行事が検討されているところです。こうした経緯を見るとき、本センターにおける研究の集約点に「総動員体制」があることは明らかです。本報告では、「総動員体制」の研究はこれまでどう進められきたのか何が論点なのか等を、雑感風にですが、考えてみたいと思います。

報告2.「教育三法」と学校のゆでカエル化          村田秀石
           「改憲」を掲げてしゃにむに突っ走った安倍前内閣のもとで,2006年12月に教育基本法が改正され,2007年6月には,「愛国心」教育や教員免許の更新制などを盛り込んだ「教育三法」が成立した。安倍内閣の退陣により,急進的な「教育改革」は一息ついた感があるが,教育現場では,「選択と自己責任」をキーワードとした入試制度や教育課程の改変がすすめられ,「学校組織の活性化と教職員の資質・能力の向上」の美名のもと,機械的な教職員評価制度が導入されている。法の施行に先行してなし崩し的にすすめられる「教育改革」の実態について報告する。

報告3.戦時下、平和産業から軍需産業への強制転換 ―水島航空機製作所の協力工場となった倉敷紡績―         上羽 修

日中戦争開始以前、平和産業である紡績産業は国内産業の最先端にあり、強い国際競争力により世界市場に君臨していた。だが日中戦争以降、強制的に統廃合され、紡績機械は鉄鋼増産のために供出、スクラップ化され、多くの企業が軍需産業に転換した。平和産業を食いつぶすことで軍需産業は成立した。その典型例として、「倉敷紡績」が「倉敷工業」に社名をかえ、三菱重工業水島航空機製作所の協力工場として軍需産業に転換する過程を概観し、水島を中心とする航空機産業の巨大な施設群の意味を考えたい。

報告4.60年前の倉敷・水島―航空機生産の最前線を掘り起こす―    土屋篤典
昨年、海軍の戦闘機・紫電改の現図、主翼中間部の単一部品工程表などの資料が見つかり、三菱重工業水島航空機製作所における航空機生産の実態が少しわかり、疎開工場の実態について多少解明が進んだ。今年9月にその三菱重工業水島航空機製作所の建設時の段階などの資料が出てきた。三菱重工業水島航空機製作所は、海軍の命令で一式陸上攻撃機を製作していた。1943年9月からの操業から1945年6月22日の空襲で工場が壊滅するまで、その生産の最前線の実態を伝えたい。それから、出てきた資料はもちろんであるが、聞き取りの中で疎開工場の一つである亀島山地下工場の内部がどうなっていたかということなどを含めて戦時中の倉敷・水島の実相に少しでも迫ることができた報告をしたい。

報告5.龍爪開拓団の足跡を訪ねて            青木康嘉

2007年8月6日から12日まで、「岡山県龍爪開拓団を訪ねて、日中友好をはかる旅」を企画した。今回の旅は高見英夫さんをはじめ、龍爪開拓団関係者が参加した。その報告集『慟哭の大地』をつくるにあたって、気を使った点は「史実」である。残留孤児の「記憶」を検証することは特に大事なことであった。八歳という年齢で、次々と「異常な悲劇的事態」がおきたことは「事実」だけど、日時も地理的な位置もどこまでが「史実」なのか。たとえば、「父の死」「母の死」「兄弟姉妹の死」は、「絶対記憶」である。しかし、その際の「感情記憶」は、「史実」か。多数の「証言」を得る中で、「感情記録」の「史実」に迫った本が『慟哭の大地』である。


第2回研究会(3月22日)

10周年企画行事{統一テーマ「総動員」}第一回 戦争への「総動員」 ~過去と現在~

◎内容

 「庶民は、平穏に暮らしたいという願いや、将来へのささやかな希望さえも、「私的」なものとして封じられ、戦争遂行にもっとも有効に運用するための資源として「総動員」された」。これは当会編集『総動員の時代』の「まえがき」の一節です。このような「総動員」をテーマとした本の出版理由を次のように述べています。
「年報をあらためて読みかえすと、調査対象の大半が「総動員」に関するものであった。ここでいう「総動員」とは、「国家総動員法」や「国民精神総動員運動」にもとづくもののほかに、徴兵や満蒙開拓団、朝鮮人・中国人の強制動員まで含めている。戦争期に生きた庶民の一人ひとりが自らの肉体と精神と物資の三重の「動員」をうけたという事実は、調査者にとって見過しにできない問題であり、現代的課題であったのである。」
当会発足10周年となる今年、その間の活動の到達点の一つが「総動員」でしたが、個々の調査研究の成果からどのようなことが導き出せるのか、そもそも「総動員研究」の分析方法や論点は何だったのか、現在進行している戦時動員態勢は何か、などについて考えます。 10周年行事としてこの後、パネル展「岡山『総動員の時代』」(仮題)や講演会「再生する総動員の思想と制度~清算されない"総力戦社会"の果てに~」を企画しているが、その一環として「総動員」の意味を多面的に検討します。
次の3題を約20分ずつ報告、そのあと自由討論しテーマを深めます。
①日米軍事再編と「アメリカの戦争」への動員……藤田滋さん
②鳥取県における国民保護実動訓練と住民動員の特徴
……上羽 修さん
③総動員体制研究の課題―纐纈厚氏の「総動員体制」論の検討―
……小畑隆資さん


第3回研究会

岡山の兵士たちが語った戦争の真実    ―『昭和の遺言 十五年戦争』を上梓して―

◎08年4月26日(土)午後2時~4時45分
◎報告:仙田典子さん
◎内容
地域誌、たとえば岡山県史をはじめ各市町村史には、十五年戦争の記述が極めて少ない。特に兵士が戦闘地や占領地で何をしたかを記したものは皆無に等しい。そうした中で『吉永町史 通史編Ⅳ』(1997年)は際立っている。ほぼ全編、兵士の記録なのだ。通史編・編集委員長の仙田実さんは、その「あとがき」で「戦時中の苦労と不自由はだれも忘れることはできません。また忘れてはなりません」。現在の平和の問題も人権や福祉の問題も、「一にここに原点があるからです」と、現在を知り未来を創るためには十五年戦争を学び伝えることの 重要性を説いている。 その全面改訂版ともいうべき本が、娘の典子さんの手で刊行された。「娘の典子が内容や構成をしさいに検討し、徹底的に手をいれてくれた。そのおかげで本書は、前版とくらべて格段にわかりやすく、おもしろく、しかもわたしの念願である「戦争の真実」がよくつたわるものになったと  思う」と、目を細めて喜ぶ父、実さんの顔が浮かぶようだ。そんな実さんも昨年亡くなられた。
元兵士からの取材や記録、出版の意図を、実さんは「まえがき」で述べている。
「『戦争の真実は兵士のみが知る』といわれる。わたしは1990年代なかばの数年にわたり、満州事変からアジア太平洋戦争までの従軍兵士を中心に、200人近い人々から戦争体験の聞きとりをおこなった。本書はそれをまとめたものである。これは世にいう戦史ではない。また一面的な戦争告発書でもない。戦塵をかいくぐった兵士たちの生身の体験談であり、心底からの告白録である。このなかでわたしが目ざしたのは、戦争における兵士たちの実体験、すなわち「戦争の真実」をくまなくつたえることだった」。
では典子さんはどんなこだわりをもって父の編纂した公刊書に「手をいれ」たのか。「あとがき」の次の一文からも溢れんばかりの意欲的なこだわりが読み取れる。「さらに、聞きとりの文体のこともあげねばならない。わたしにしてみると、これが標準語に統一されているのは、いかにも惜しいのである。たとえば竹内枝男の語り(382ページ)を、元の岡山弁で次のように書いてみるとどうだろうか。
ひとことで被爆じゃいうても、おれの場合は外からの放射能と内からの放射能の二重汚染じゃ。あんときの飯はめっぽううもうて、放射能まぶれたあつゆ知らず、食料の腹内備蓄ぐれえに考(かんげ)えて、腹が裂けるほどかきこんだんじゃ。あれがわりかった。なんにしても、おれの病気は内からの汚染だけ余分じゃあ。」


第一回戦跡見学会 牛窓防空監視哨跡とハンセン病施設 ~瀬戸内市の戦争遺跡をめぐる~
◎日時:5月25日(日)9時30分(集合時間)~16時
◎集合場所:牛窓 前島フェリーのりば 駐車場
◎案内:土屋篤典さん、正本仁さん(牛窓防空監視哨跡)
[コース]
(1)牛窓防空監視哨
旧牛窓町にあった。本蓮寺近くの元国民宿舎の近くにあり、現在は何も残っていないが、監視哨のあった位置から瀬戸内海が一望できる。正本仁さんの父親は1945年当時防空監視哨の哨長で西日本に空襲にくるB29を監視した。
  昼食:道の駅一本松展望園(ブルーハイウエイ)で
(2)国立療養所長島愛生園
全国に13箇所あるハンセン病の国立療養所の中で最初に建てられた。入所者から体験を聞く。
∇愛生園歴史館(右の写真)
入所者がうけた数々の人権侵害の実態が、戦前~戦後を通し展示されている。
∇奉安殿跡
奉安殿の土台が残っている。菊水の紋章は歴史館の中に保管されている。
∇収容桟橋と回春寮
隔離される患者を降ろした船着場と彼らを検査し、隔離の準備をさせた寮。
∇監房跡(右の写真)
脱走者や園長に反抗した患者を収容した監獄。現在その壁が残っている。


第4回研究会

「わが人生を語る」

08年6月28日(土)午後1時30分~4時30分
◎会場:岡山県立生涯学習センター・ミーティング室④
◎報告:船越美智子さん(元龍爪開拓団員)
◎内容
船越美智子さんは、1928(昭和3)年2月11日早島町生まれ。 1938年12月龍爪開拓団に家族で渡った。龍爪小学校を卒業後、新京タイピスト学校へ進学した。その後、満州拓殖公社へ入社した。1945年に退職して、龍爪開拓団に戻った。 8月12日から龍爪開拓団の逃避行が始まる。祖母の松(79歳)が楚山で死亡した。頭道河子から横道河子、拉古収容所の様子を鮮明に語る。ハルビンの収容所ー新京(長春)室町小学校や東大房身収容所などを転々とする。東大房身収容所で父の繁一が発疹チフスで死亡する。長春で 知り合った日本人(建築家)と結婚しかし、長春は八路軍が包囲し、国府軍は閉じこめられる。チャーズを命からがら脱出し、吉林で生活した。1953年引揚げした。夫は、帰国後奥さんが生きていたことがわかり別れ、二人の子どもを引き取って戦後を生きた。
1976年 『龍爪開拓団の足跡』をまとめる。名簿作成。
1980年 別冊『一億人の昭和史』続満州「悼みと追想の旅路」 執筆
1988年 龍爪開拓団跡地を長期間丹念に訪れる。
現在   岡山県・岡山市中国残留邦人のための自立指導員


岡山・十五年戦争資料センター発足10周年記念行事

発足10周年を記念して、「総動員」をメインテーマにパネル展と講演会を行ないます。

パネル展

 ◎期日:8月2日(土)~9日(土)(4日休館)
∇初日 :13:00~18:00
      ∇通常 :10:00~18:00
           ∇最終日:10:00~16:00
◎会場:西川アイプラザ・展示スペース(4階、岡山市幸町10-16)
http://okayama-sc.jp/aiplaza/
◎テーマ:「私たちはこうして戦争に呑みこまれた―岡山・総動員の時代―」
◎展示内容:
精神の総動員・満蒙開拓団、学徒勤労動員、亀島山地下工場、岡山郷土部隊、
中国人強制連行、朝鮮人強制連行など
∇幻の映画「我等は若き義勇軍」(拓務省作成)ほか上映:青木康嘉氏
①8月8日(金)13時10分~14時、14時10分~15時、第1会議室(展示スペース隣り)
② 〃 9日(土)10時 5分~10時55分、第2会議室(展示スペース隣り)
∇「民話のなかの『動員』~木の召集・猫の供出・カラスも戦争に・カラスが弔いに~」
解説:立石憲利氏
8月9日(土)11時から約30分、第2会議室(展示スペース隣り)
◎参加費:無料

講 演 会

◎期日:8月9日(土)午後1時30分~4時30分
◎会場:西川アイプラザ・多目的ホール(5階)
◎講師:纐纈(こうけつ)厚氏(山口大学教授、現代政治社会論・近現代日本政治史)
◎テーマ「再生する総動員の思想と制度~清算されない"総力戦社会"の果てに~」
総動員の思想と制度によって形成される社会を、歴史と現代政治の日本的特質を踏まえて捉え返す。
∇主な著書
『憲兵政治 監視と恫喝の時代』新日本出版、2008/02 、
『監視社会の未来 共謀罪・国民保護法と戦時動員体制』小学館 2007/09、
『「聖断」虚構と昭和天皇』新日本出版社 2006/12出版、
『いまに問う憲法九条と日本の臨戦体制』凱風社 2006/11
『文民統制自衛隊はどこへ行くのか』岩波書店 2005/06、
『近代日本政軍関係の研究』岩波書店 2005/03
『有事法制とは何かその史的検証と現段階』
『周辺事態法新たな地域総動員・有事法制の時代』など多数
◎参加費:前売一般:800円、当日一般:1000円、学生:500円
主催:岡山・十五年戦争資料センター「パネル展・講演会」実行委員会


第5回研究会
「在日、戦後を生きる」
08年9月29日(土)午後1時30分~4時30分
◎会場:岡山県立生涯学習センター・ミーティング室②
◎報告:全 円子さん
◎内容
現在、日本には約60万人の「在日」がおり、登録外国人の多数を占めている。それらの多くは、韓国併合以来の日本の植民地政策、及び日韓の戦後の混乱によって日本に残留し、居住してきた在日韓国・朝鮮人だ。戦前・戦中の日本社会における「在日」への差別は、戦後も続いた。今なお差別を受けるという現実もあるが、在住外国人が増える日本の現代社会において、今後「在日」はいかに生きるべきかを考えたい。

2007年度

第1回研究会(1月13日) 

ぼくら15才の詩 ~満蒙開拓青少年義勇軍の思い出~

 ◎報告:神崎五一さん

《紹介》
神崎さんは川上町大賀出身。1943年(昭和18)満蒙開拓青少年義勇軍近藤中隊に参加した。16歳で3月に内原訓練所へ、5月に北安省の昌図訓練所へ入る。その後44年に嫩江訓練所へと移った。
清心女子高校の山内宏之氏の『満蒙開拓青少年義勇軍の記録』ー 岡山県川上町の場合ーに詳しく背景が書かれている。また、神崎さんら4名の川上町拓友会がによって、漫画『ぼくら15才の詩』(2000年)が出版された。
《メモ》
1931年の満州事変以降に本格化した日本からの満州国への移民は、当時の広田弘毅内閣は1936年に 「満州開拓移民推進計画」を決議し、1936年から1956年の間に、500万人の日本人の移住を計画、これを日本政府により推めた。この政策には、20 年間に移民住居を100万戸建設するという計画も打ち出されており、国策に裏打ちされた入植者の大陸への送り込みが図られた。

 戦局の悪化による兵力動員で1942年以降は成人男子の入植が困難となり、15歳~18歳の少年男子で組織された「満蒙開拓青少年義勇軍」が主軸となった。軍事的観点からおもにソ連国境に近い満州北部が入植先に選ばれた。(Wikipedia「満蒙開拓移民」より抜粋)

 岡山県では1938年から義勇軍の募集が始まり、当初は全国混成中隊に編制されていたが、1941年から県内出身者による郷土中隊が編制され、1945年までに県内から2,700名余りが義勇軍に参加した。県内では旧川上町の属する川上郡からの参加者が最も多く、265名を数える。その内、旧川上町域からは52名が送出されている。神崎さんが所属した近藤中隊は253名で、帰国者は202名である。(『岡山県 史』)
神崎さんは敗戦後、ソ連兵に連行され一時抑留されたが再び満州に戻り、1946年に帰国した。


第2回研究会(3月10日)

 中国「残留孤児」国賠請求訴訟 相次ぐ判決について

 ◎報告:荒武一彦さん
◎内容
全国15地裁で、孤児200人余が原告となって提訴され、争わせている中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟が、年明けに第1審のヤマ場を迎えます。年末の神戸地裁に続いて1月30日には東京地裁で判決が出ます。東京訴訟は最大のマンモス裁判であり、その結果は、訴訟そして運動全体にもたらす影響は大きいものになると思われます。 今夏7月6日、大阪地裁が全国初の判決を下しました。結果は「原告敗訴」でした。同判決は、戦前の国策や終戦時の混乱や孤児残留の事実、早期帰国や帰国後の自立支援策に対する国の義務は認めたものの「義務違反」は認めず、従って賠償責任もないと原告の訴えを退けたのです。
神戸、東京の判決によっては、全体として法廷闘争だけでなく政治解決へ向けての動きが強まる可能性もあります。岡山訴訟の判決は来春以降に遅れそうですが、両判決の内容を踏まえながら、状況の分析が出来ればと思っています。


第3回研究会(4月14日)

 満井佐吉中佐と天関打開期成会

◎報告:難波俊成さん
◎内容
昭和初期ドイツに駐在した満井佐吉は、ナチスとドイツ国民の熱狂に感銘を受ける。帰国後久留米師団の大隊長と なるとともに、九州で民間団体「大日本護国軍」を結成。その後日本各地に「天関打開期成会」を立ち上げ、国防力の充実とアジア進出を主張。やがて岡山にも その中国本部ができる。


第1回戦跡見学会(5月27日)

軍需物資・学童の疎開先 ~総社の戦争遺跡をめぐる~

[コース]
(1)華光寺(総社市山田): 神戸からの集団疎開を受け入れた。
(2)下倉の横穴群
呉海軍部隊の火薬製造工場と軍需物資を疎開させるために多数の地下壕が掘削されたが、現在3か所の横穴が確認できる。
(3)奉安殿(総社市常盤)
天皇皇后の写真と教育勅語を納めた奉安殿が常盤小学校横に残っている。
(4)総社小学校校庭の「天壌無窮」の石碑 現天皇「御降誕記念」の碑。神の意志により君主となって日本を治める、ということか。
(5)元総社警察署(現在「総社市まちかど郷土館」)
治安維持法により全農全国会議岡山県評議会にいた総社市の高木里士さんを逮捕、拷問した。


第4回研究会(6月16日) 

中国人の対日感情

◎報告:班 偉さん(山陽学園大学教授)
◎内容
2005年4月に中国で発生した大規模な反日デモに象徴されるように、今日、日中関係が益々複雑な様相を呈し始めている。中国の国力増大や日中両国を取り巻く国際環境の激変を背景に、中国政府の対日外交政策も一般民衆の対日感情も日々変わりつつある。
この報告では、70-80年代における「日中友好」「日本に学べ」キャンペーンから、90年代における「愛国教育」の実施過程まで、現代中国における日本観形成の紆余曲折を振り返りながら、中国人の日本観の特質を分析し、そして両国関係の行方を探ってみる。


第5回研究会(7月27日) 

丸亀俘虜収容所とハーグ条約

 ◎報告:高橋輝和さん(岡山大学文学部教授・ドイツ語学)


第6回研究会(8月21日)   

木箱の底から「ふ号風船爆弾」

◎報告:川内久栄さん
◎内容:
戦争末期、大阪で「女子挺身隊」として風船爆弾の和紙張りをし、その体験を『木箱の底から』という詩集にまとめた川内さん(1931年生れ)にお話しをうかがいます。

つぎの詩は、詩集のなかの「いまだに出走する」の一部です。
私の意識下の深い層から
かつての○ふ号和紙風船爆弾があらわれ
遠いビルから上がるアドバルーンと重なる
あの終戦時極秘に抹消された兵器だが
私の人生のひとこま
女子挺身隊として和紙張りをした工場は
アドバルーンのあたりかも
旧大阪陸軍造兵廠跡地の新市場を行く
新装まもない巨大ホテルの前は
ダンボール屋敷が並ぶ
公園で凧上げ大会をしている
四角や三角の凧と競うまんまる凧

  西風に乗り目的地に向かう○ふ号だった


第7回研究会(9月15日)

「戦争遺跡保存」全国シンポに参加して~亀島山地下工場跡の保存・公開を考える~

 ◎報告:土屋篤典さん
◎内容
亀島山地下工場跡は、岡山県下でとても貴重な、そして県下最大の戦争遺跡である。1980年代後半、県立倉敷中央高校社会問題研究部が掘り起こしてから、高校生や市民による学習の場になり、日本と韓国・朝鮮や高校生と地域に在住の在日コリアンとの交流など日本とアジア、地域の民族問題を考える貴重な遺跡となった。高校生の活動を大人も支援しようと「亀島山地下工場を語りつぐ会」も結成された。
それから、約20年の月日の中で、戦争が遺跡や遺品によって語られる時代に入りつつある現在、亀島山地下工場跡が多くの人々の目から遠ざけられようとしている事態が進行している。急遽、語りつぐ会の再建準備会結成や行政の申し入れが行なわれた。今後、保存公開へ向けて何ができるのか考えるために、戦争遺跡保存全国シンポジウムで学んだことを報告したい。


第8回研究会(9月15日) 

龍爪開拓団の足跡を訪ねて

 ◎報告:青木康嘉さん
◎内容
2007年8月6日から12日まで龍爪開拓団足跡を訪ね、日中友好をはかる旅を企画した。中国残留日本人孤児である高見英夫さんの生涯をたどり、龍爪開拓団の歴史的史実を追求した。しかし、高見さんの8歳~9歳の「感情記憶」によるオーラルヒストリーと史実は一致しない箇所があった。その溝を埋める旅であった。史実を求めて得た成果を紹介する。

2006年度

第1回研究会(1月28日)

シンポジウム「思想連鎖からみる近代アジア」へ参加

 

第2回研究会(3月11日)
「『白熱聖戦』とその時代」  報告:古市秀治さん

『白熱聖戦』は岡山県立岡山工業高等学校の前身である 岡山県工業学校で生徒有志による白熱隊の機関誌である。
白熱隊は1929(昭和4)年に教育勅語公布40周年を記念して結成された 文化部を総称する啓成部が母体で、ここから1931(昭和6)年に誕生した。
機関誌は1935(昭和10)年~1938(昭和13)年にかけて断片的にしか残っていない。今回の報告では資料の紹介を行うと共に、 戦時下の学校教育史の学史整理を進め、 この動きを県内や当時の日本の動向の中でどのように位置づけられるか、 その試案を提示する予定である。


第1回戦跡見学会(5月14日)

福山の戦争遺跡をめぐる

   

案内:井上博義さん
[コース]
①福山海軍航空隊(乗員養成所・631空・福山空)
②福山歩兵第41連隊:福山陸軍病院・福山練兵場
△時間があれば、憲兵隊、連隊区司令部跡(門のみ)
△旧軍需工場跡(帝国染料):現ポートプラザなど
③鞆(とも)高射砲陣地
④福山人権平和資料館
⑤福山城外苑
福山海軍航空隊
民間航空路拡充計画により逓信省が設置した水上機乗員養成機関。新施設に注目した海軍が分遣隊を設置、のち福山海軍航空隊として独立した。神風特別攻撃隊が編成され、5機9名が戦死した。また第631海軍航空隊(第6艦隊付属)潜水艦搭載機の訓練基地となる。
福山歩兵第41連隊
岡山、広島県出身者の歩兵部隊として創設。福山市民の招致運動により、明治41年福山に転営、岡山第17師団に属した。満州事変以降、広島第5師団に復帰。中国、マレー半島、ニューギニアを転戦、壊滅状態となる。平譲で再編成後、ミンダナオ島に渡り、玉砕した。
悲劇の連隊といわれる。
鞆(とも)高射砲陣地
ドウーリットル初空襲で衝撃を受けた大本営の戦備計画に基づく要地要港の防空施設。砲
床、砲座、付属施設跡が尾根部に残る。陸軍高射砲中隊が配置されたが、正式名称や部隊の詳細は不明。


第3回研究会(7月22日)

戦争と農村 ―昭和14年の父母の日記から考える―

報告:三好尚子さん(『昭和十四年 農村青年の一年』編者)

 父の姿を思い出すとき、いつも同じ光景が目に浮かんでくる。家の下の田んぼで父と母は砕土(くれめぎ)の鍬を手にしたまま土の上にべたっと座り込んでいた。父を見つめる家族たち。父の暗い暗い顔―。昭和19年6月の田植え前、召集令状が届いたときの生涯忘れることのできない私の記憶である。
その5年前の昭和14年、父母が一緒に記した日記が残っていた。日記には、家族のこと、むらのこと、農事、家事、諸会合のこと、出征兵の送迎など、簡単な記述ながら農村のくらしや動きが記されていた。私の記憶の中の、召集令状が来た時の父母の姿と、日記の記述が重なっていった。
日中戦争のさ中、世界的にも戦争の緊張の高まっていた昭和14年、父母たちは戦争をどうとらえてい


第4回研究会(8月23日)

戦死者の追悼と顕彰 ―感情の統合:戦場、地域、国家

報告:上羽 修さん

"心を一にして"は、複数の者が「こと」にあたるときの決まり文句である。「こと」が困難であればあるほど、とくに死の危険をともなうようなときは、当然、組織の強い結束が要求される。では死の危険を常態とする戦争では、国家、地域、戦場の各レベルの指導者はどのようにして組織強化に努めたのであろうか。
岡山編成の歩兵第110連隊が掃討作戦をおこなっていた中国河北省を戦場とする戦死者の追悼と顕彰について、元将兵の回想は次のことをうかがわせるものであった。
戦友が敵に殺害されるような理不尽な死に方をしたとき、往々にして怒りの感情が生起するが、その感情は親密の度合いに応じて強弱があり、同一部隊内でも隊員により不均一であった。個人レベルの怒りの感情は、殺害者にたいする戦闘意欲を劇的に促進し、報復へと駆り立て、その方法はときとして理性を失ったものとなった。一方、指揮官の場合、報復戦を宣言し実行することで、個々の兵士の不均一な怒りの感情を一様に高め統合し、戦闘意欲を亢進させて組織強化をはかろうとした。
戦死者にたいして、地域レベルでは公的な葬儀が盛大に行われ、国家レベルでは靖国神社に英霊として祭られた。その過程で、戦場と同様に、それぞれの指導者は、地域住民や国民がもつ戦死者にたいする喪失感や悲しみや怒りなどの不均一な感情を、戦争を正当化し戦意を高揚させる方向に統合し、組織を強化しようとしたのではないだろうか。まだ試論の段階であり、多方面から検討を加えていただきたい。


第5回研究会(9月23日)

高橋哲哉氏の「靖国」論 ―『靖国問題』の検討―

報告:小畑 隆資さん

 本書の「はじめに」で、高橋氏は「歴史家」としてではなく「哲学者」として「靖国問題」を「論理的にあきらかにする」と明言している。そこで、本報告は、これまでの歴史学的アプローチ(たとえば、村上重良著『慰霊と招魂-靖国の思想-』〈岩波新書、1974年〉、大江志乃夫著『靖国神社』〈岩波新書、1984年〉など)が、靖国問題をどう取り上げ何をどこまで解明してきたかを検討し、それとの比較において、氏の「哲学」的アプローチとはどのようなもので、そこで新たに明らかにされ主張されているポイントとは何なのかを考える。そこでの焦点のひとつとして、「靖国信仰から逃れるためには、必ずしも複雑な論理を必要としない……。一言でいえば、悲しいのに嬉しいと言わないこと。それだけで十分なのだ。」との氏の提言が検討される。 その他、「責任」、「政教分離」などの本書におけるキー概念が検討され、氏の「哲学」とこれまでの「歴史学」との対話を試みてみたい。


 第6回研究会(10月14日)

特権的な満鉄 憤る話を聞いて ―「満州国」解体時、歴史はどう動いたか―

報告:青木康嘉さん
昭和20年8月9日から始まったソ連参戦。8月15日の敗戦を前に特権的な「軍人家族、満鉄社員、満州国官僚」などはいち早く日本へ逃げ帰ったのか。開拓団、義勇軍、一般の民間人は艱難辛苦の逃避行を余儀なくされた。中国に残留した日本人の帰国は、早くて昭和21年の秋以降となる。
「満州国」が解体した時の様子、その時「歴史はどう動いたのか?」 真実を検証する。満鉄の歴史と満鉄社員の「光と影」にもスポットをあてて、考えてみる。


岡山の十五年戦争を考える研究集会(12月3日)

第1部 戦時下:民衆動員とその結末

報告1.戦争に動員された小学一年生                    立石憲利

 1938年生まれの私が、国民学校(小学校)1,2年生のとき(44,45年)行なったことが、戦争遂行の施策にもとづくものだった。そのことを当時の政府発行の雑誌などによって裏付けてみたい。具体的には、桑やカラムシの皮むき、ワラビ採り、サツマイモのつる採り、カボチャの葉柄採り、ススキの穂の採取など。

 

報告2.61年前の倉敷・水島―紫電改と水島航空機製作所現図班と工程表を追う―
土屋篤典

 今年の4月に海軍が終戦末期に製作していた局地戦闘機「紫電二一型 通称紫電改」の胴体の骨組みの現図が公開された。また、報告者手元には紫電改の翼の部分と思われる工程表がある。これらを通して、終戦末期紫電改が三菱重工業水島航空機製作所でどのように製作されていたか、その他疎開工場や疎開の状況を含めて61年前の倉敷・水島の様子を、当時を知る方々への聞き取りなどを通して、解明したい。

 

報告3.祖国の母を捜し求めて                           青木康嘉

ソ連参戦後の昭和20年8月16日、七虎力開拓団の高杉久治さん(当時4歳)は、母の秋子さんと弟の悟君の三人で逃避行をしていた。張家屯で襲撃に会い、 久治さんは母の手を離れて翌日中国人に発見され中国残留孤児になった。久治さんには、母の記憶がない。その後、母の秋子さんは、伊漢通開拓団跡の収容所に いた。その年の冬、弟の悟君が栄養失調で死亡した。そして、翌年4月母の秋子さんも亡くなった。昨年夏に、その地を訪れた。しかし、祖国の母はどんな人で あったという思いは残されたままであった。伊漢通開拓団跡の収容所で一緒に暮らした井上忠志さん(当時15歳)を探し当て、母の実像やその暮らしを聴い た。その報告である。

 

第2部 現在:戦争責任論/緊迫の教育・動員

 

報告4.戦争責任論-高橋哲哉氏の家永三郎『戦争責任』批判を中心に-小畑隆資
高橋哲哉氏は『歴史/修正主義』(岩波書店、2001年)で、家永三郎氏の『戦争責任』(岩波書店、1985年)を「労作」と評価しながらも、そこにおける「純戦後世代の日本人」の「戦争責任」の議論が、「血統主義」的な「日本人」論から脱却しておらず、「民族」と「国家」の区別があいまいであると批判されている。そもそも、家永三郎氏の「戦争責任」論とはどのような議論なのか、また、あたらしく「戦争責任」・「植民地責任」・「戦後責任」を展開されている高橋哲哉氏の議論はどのような議論なのか、両者の対話を試みるなかで、「戦争責任」とは何かを考える。

 

報告5.教育基本法「改正」をめぐる岡山の動き 村田秀石

 

安倍内閣が成立し,政府の教育基本法「改正」案をめぐって事態が急迫している。岡山県においても,「改正」に反対する団体や個人が宣伝・署名などの共同行動を強める一方で,9月県議会では,自由民主党県議団が提出した法案の早期成立を求める意見書が採択されるなど,「改正」を求める人びとの巻き返しも強まっている。県議会で採択された意見書には,政府案の「修正」要求も含まれているが,そこからは,教育に対する「改正」派の屈折した心情を読みとることができ興味深い。

 

報告6.新たな戦争への国民動員―鳥取県での国民保護実動訓練の実情―上羽 修

 市町村の国民保護計画が今年度中に作成され、来年度から住民の避難訓練が全国各地で一斉に始まるだろう。「県では一年先行して、市町村では二年先行」したと片山鳥取県知事が豪語するように、鳥取県三朝町では昨年12月と今年10月に全国のモデルケースともなるような住民避難の実動訓練が行われた。なぜ三朝町が選ばれたのか、その理由から有事態勢を進める政府の遠謀深慮が読み取れる。

2005年度

第一回研究会(1月8日)

坪田譲治文学における「戦争」 ―保定・易県での二日を中心に― 報告者:劉 迎

 

 小説家である坪田譲治はその92年の長い生涯において、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、中日戦争など、数々の戦争経験をした。それはのちに彼の文学に反映されて大きなテーマになっている。中でも特に中日戦争を取り上げたものが数多く存在している。
では、坪田譲治は中国に対してどんな視線を向けていたのか、そして彼の文学には中国をどのようなものとしてイメージし、そこに何を期待し何を賭けているのか。坪田譲治の思想的軌跡の展開についての究明とともに、今後の課題にしたいと思う。最新の研究を踏まえての今回の演題は次の三つで構成されている。
1.坪田譲治文学の形成と特質
   2.坪田譲治と「戦争」
3.坪田文学における中国人の子ども像


第二回研究会(2月19日)

戦後60年特別企画『岡山県下の戦時動員(仮題)』の出版にむけて

 

 これまでに『岡山の記憶』などで報告された岡山の十五年戦争に関する調査・研究は、人・物資・精神の「動員」に関するものが大半を占めています。これらをベースに、『岡山県下の戦時動員(仮題)』という本にまとめ出版するため、その内容について多面的に検討したいと考えています。 かつて「国家総動員法」のもとで、岡山の人たちはどのように戦争に狩り出され戦争を支えたのか、そのディテールまでも記録にとどめることは、有事法制が完成し新たな戦時動員体制が整えられようとしている現在、ますます重要性がましている。


第三回研究会(3月12日)

倉敷市の戦争遺跡マップ   報告者:田辺昭夫

 

  

「倉敷市の戦争遺跡マップ」と亀島山地下工場跡の保存運動について報告します。また、高校生の 取り組みや「水島軍都整備計画」の追加報告も予定しています。県内最大の戦跡、亀島山地下工場跡を 中心とする水島の戦跡群を、「軍都」の観点から総合的に考えます。


第四回研究会(4月2日)

執筆者は語る-『岡山の記憶』第7号の合評会

 

久々の145頁。B6版の本にすれば300頁にも相当する豪華版ができました。内容も豊富で(編集者の手前味噌!)、昨年11月の「岡山の十五年戦争を考える研究集会」や研究会で発表された論考以外に、特集「非戦60年 和解への軌跡」の各論稿、論文、評論、エッセイ、戦争体験、史料紹介、中国旅行報告集などがあります。とくに書き下ろしの論稿について、執筆者から話を聞きたいという要望がありました。そこで今回は、これまでに研究会などで口頭発表されていない論稿の執筆者から、5分から20分ほど説明をして もらうことになりました。執筆者の説明を中心に、合評をおこないます。


第一回戦跡見学会(5月21日)

「軍都」水島の戦争遺跡をめぐる   案内:土屋篤典さん

 

 ◎内容:
戦時中、倉敷市水島には三菱重工業水島航空機製作所という大規模な軍需工場と付属の社宅・宿舎・病院・飛行場などがつくられ、一般工員、徴用工、養成工、海軍工作兵、挺身隊、勤労動員された学徒などが、多いときには25、000人も働いていました。また倉敷海軍航空隊もつくられ、一時5、000人もの兵員を擁していました。これらの軍需・軍事施設の防空のため、四囲に防空監視哨や砲台が構築されました。

 空襲の危険がせまると工場が分散・疎開されましたが、亀島山地下工場もその一つで、東西にのびる5本の隧道とそれをつなぐ多くの支洞が朝鮮人の強制労働で掘削されました。

 この軍需工場にたいする二度の空襲で死傷者をだし、6月22日の大空襲で工場はほぼ壊滅しました。現在も当時の姿をそのまま留める亀島山地下工場跡と散在する防空施設などには、「軍都水島」に総動員された膨大な人々の物語が刻まれています。有事法制が成立し、戦時動員体制が着々と整備されつつある今、「軍都水島」の戦争遺跡群をめぐり、平和について考えましょう。

[コース]

 ①亀島山地下工場フィールドワーク

 ②昼食(広江のレストランニューリンデン)

 ③水島地区

・倉敷海軍航空隊(予科練)王島山の防空壕跡

  ・水島空襲の民間人犠牲者が出た場所(東塚)

④玉島地区:水溜の弾薬庫跡と高射砲陣地跡

 ⑤水島勤労福祉センターで戦跡の活用を話す


第五回研究会(6月25日)

歴史認識・歴史教育の合意をひろげるために  報告:難波達興さん

 

 『岡山の記憶』第7号に同名のタイトルで「書評」を書かれた難波氏が、この本とその重要性についてあらためて紹介します。
「書評」には、はじめにところで概略次のように書かれています。
05年8月に中学校教科書の採択が行われる。「新しい歴史教科書」(扶桑社)にとってリベンジの第二ラウンドとなるが、「不適切な教科書」の採択を許さないたたかいの一助として編まれたのが本書であり、「第一回日韓合同歴史研究シンポジウム―教科書問題」(2001年12月、東京大学)と「韓日歴史関連学会合同会議」(2003年6月、ソウル大学)の記録である。
そのなかで和田春樹氏は、金大中大統領・小渕首相の日韓共同宣言にもとづいて1999年に設置された「日韓(韓日)文化交流会議」の日本側座長、三浦朱門氏を批判している。三浦氏は、扶桑社の歴史・公民教科書をもっともすぐれたものとして推薦する人物であるからだ。政府間レベルの「官製」組織のもついかがわしさ、危うさが露呈しているだけに、「民」の出番でもある。また、「教科書問題」を主題とするこうした国を横断した「合同シンポジウム」にあたっては、次のような五つの「共同作業の原則」を掲げている。

その要点は、
①日本が歴史的に隣国に多大な苦痛と被害を与えたことに対して謙虚な認識をもつことが前提であること。
②真に未来指向的な協力の意志から出発すること。
③専門的な研究団体、歴史学会、歴史教育界を代表する人々によって構成すること。
④学問的自由が保障されること。
⑤活動は公開制を原則とすること。
また、石山久男氏は、教科書問題の解決は、「国際的に、それも国家間での解決で終わるのではなく、東アジアの平和の構築を展望しつつアジアの民衆の間で国境を越えた共通の歴史認識を追求するという大きな課題に向き合うことになったのである」と、的確なそして深い情勢判断をしている。


第六回研究会(7月28日)

民話の中の「動員」 ~『総動員の時代』を読む  報告:立石憲利さん

 できあがったばかりの『総動員の時代』をテキストに、「民話の中の『動員』」について、執筆者の立石さんから報告をしてもらいます。
本には、岡山で採録された「木の召集」、「猫の供出」、「カラスも戦争に」が紹介されています。

 その中には、猫の目の血を兵隊の目に注射すれば夜でもよく見えるようになるというので、猫を全部供出した。ところが鼠が増えて、ノミやシラミがたくさんわき、かゆくて眠られず、昼間も眠くて仕事にならなかった、という話がでてきます。「正面切って戦争に反対できないような時代のなかで、民話という手法を通して自分たちの意志を表しているのだと思った」といいます。

 「戦争に反対したり、批判したりすると、すぐに捕えられるという時代である。そうでなくとも『もの言わぬ庶民』たちは、口をかたく閉ざしていた」。戦争の拡大と長期化にともない進行する生活破壊、その庶民の憤懣を、立石さんは「民話」という大変ユニークな切り口から明らかにしています。


第七回研究会(8月24日)

岡山県の開拓団跡地を訪ねて  報告:青木康嘉さん

 

 「孤児の苦難 届かず」(朝日新聞、05.07.07)。7月6日、全国各地で争われている中国残留「孤児」訴訟の初の判決で、大阪地裁は請求を棄却しました。

岡山でも原告26名が係争中であり、その原告や弁護団、「支える会」のメンバーを中心とする「2005年岡山県の開拓団跡地を訪ねる中国友好の旅」の旅行団が、8月6日から12日まで中国東北部の「七虎力開拓団」や「大茄子訓練所」などの跡地を訪ねます。

案内役である旅行団事務局長の青木さんから、現地の様子や、原告や弁護士など日本人参加者の思いなどを話してもらいます。

 

主な訪問個所

∇「9.18事変博物館」

∇「七虎力開拓団」跡

∇「大茄子訓練所」跡

∇「勃利訓練所」跡

∇「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」


第八回研究会(9月17日)

 高橋哲哉著『靖国問題』を読む  報告:村田秀石さん


第九回研究会(10月10日)

岡山県でも進む有事動員体制づくり 報告:上羽 修さん

 

当資料センター編集の『総動員の時代』には、「国家総動員法」のもとに、庶民の平穏に暮らしたいという願いや将来へのささやかな希望さえも「私的」なものとして封じられ、県民の多くが戦争遂行にもっとも有効に運用するための資源として「総動員」された様子 が克明に記されている。

こんな時代に戻るのは絶対に御免こうむりたいというのが編集の動機であったが、昨年成立した有事関連法制のその後の動向をみると、戦争を前提としない社会から戦争を前提とした社会へ転換し、「総動員の時代」回帰へ大きく歩を進めた感がする。

 有事関連法の一つ、国民保護法(2004年6月成立、9月17日施行)に基づき、国は指定公共機関121を指定(04.9.17)し、指定行政機関・地方公共団体が「国民保護計画」を、指定公共機関が「国民保護業務計画」を作成するための基準となる「国民保護法の保 護に関する基本指針」(05.3)を作成した。

①指定行政機関 →「国民保護計画」

②都道府県   →「国民保護計画」  ⇒市町村      →「国民保護計画」

                   ⇒指定地方公共機関 →「国民保護業務計画」

③指定公共機関 →「国民保護業務計画」

この計画は、想定される武力攻撃事態を次の4類型にわけ、類型に応じた避難、救援、武力攻撃災害への対処を計画するもの。

 ①着上陸侵攻、②ゲリラや特殊部隊による攻撃、③弾道ミサイル攻撃、④航空攻撃

今年度は都道府県が、来年度は市町村が「国民保護計画」を決めることになっている。

岡山県では現在、この計画(素案)についてパブリックコメントを実施中(意見の募集期間:9月15日~10月14日)です。

鳥取県ではすでに3月8日に募集を締め切り、その結果、県民の沖縄戦に関する意見をとりあげるかたちで、「沖縄戦の実態を理解し、縄における戦争の実態について知識を養い、歴史的事実として認識することは、今後国民保護を考える上で大変重要と考えています。ご意見いただいた沖縄戦の教訓については、今後、計画作成の参考とさせていただきます」と回答している。


岡山の十五年戦争を考える研究集会(11月27日)

第1部 戦争への思想形成:近代と現代

報告1.岡山における「つくる会」教科書                 村田秀石

 

大きな社会問題、外交問題ともなった「つくる会」教科書。4年ぶりの採択率は全国で0.4%という結果が報道されている。この数字をどう見るのか、また教科書の記述はどのよ うに変わったのか。一般的には、内容がソフトになったと評されているが、これをどう考えるか検討する。加えて、「つくる会」教科書をめぐる岡山県内の動きについても触れる。

 報告2.「世界史」が氾濫した時代 ―「世界史の哲学」と戦争―       難波達興

 アジア・太平洋戦争期、1930年代後半から1940年代前半にかけて、「世界史」概念が氾濫していたことは、あまり注目されていない。「皇国史観」が猖獗を極めていた時代に、「世界史」が氾濫したという逆説をどう考えるか。本来、「皇国史観」に対抗すべき言説のキイ・ワードたるべき「世界史」概念が、なぜ戦争を正当化・合理化するそれに転化したのか。たとえば、「大東亜戦争の世界史的意義」(三木清)のように。戦争への動員イデオロギーとして機能した、当時の「世界史の哲学」を批判的に検討する。

第2部 中国戦線の日本軍

報告3.ある輜重兵の陣中日記(下)                 見土路 清

第7回研究集会の報告では、病院勤務の特務兵としての勤務の状況に重点を置き、特徴的な点を全体の戦況とも関連して読み取ってみた。今回は単に勤務の後半を引きつづき取り上げるのではなく、新たに入手した輜重特務兵の他の記録と比較したり、日本軍隊のなかでの輜重兵の役割や特色を考えてみたい。

報告4.「岡山郷土部隊」による中国華北部での掃討作戦―報復の論理―上羽 修

十五年戦争で日本軍による残虐行為が多々記録されているが、その動機の一つは「報復」であったことが、中国華北部で掃討作戦を行った歩兵第110連隊(岡山編成)の将兵からの聞き取りで明らかになった。戦友の死にたいする個々の兵士の喪失感・怒り・危機感を、指揮官は「報復」という単一価値観に転換・統合させ自らの統治能力を高めるチャンスとし、激情をともなった戦闘意欲を駆り立てた結果、戦闘員のモラルを極度に低下させ、過剰な殺害行為=虐殺・残虐行為へと走らせることになった。「弔い合戦」や「ブッシュの報復戦争」に通じるものがある。

第3部 戦後60年を問う

報告5.緑の大地―中国残留日本人孤児高杉久治さんの戦後60年―    青木康嘉

2005年8月6日~12日まで、「中国残留日本人孤児」 国賠訴訟に関係する人たちと中国東北部を訪問した。特に原告団長高杉久治さんが生まれた七虎力開拓団を中心に、高杉さんが戦後襲撃を受け、一人ぼっちになり 養父母に育てられた場所や母親や弟が亡くなった跡地を 訪ねた。また、裁判を支える会の小林軍治さんの生まれた 龍爪開拓団跡地を訪ねた。また、侵略の「加害」面も学んだ。この旅は、原告側弁護士や裁判を支える会の人たちに「現場」 を見てもらいたかった。

報告6.続 「軍都」水島                         土屋篤典

現在から60年前の水島とその周辺地域がいかに戦争に関わっていたかを解き明かす。三菱重工業水島航空機製作所、倉敷海軍航空隊を中心に、協力工場、疎開工場、高射砲陣地などについて当時を知る方々からの聞き取りを交えて、『総動員の時代』の記述にさらに書き添えて「軍都」水島がはっきりと見える報告にしたい。

2004年度

第一回研究会(2月11日)

倉敷・水島の戦災

      

報告:高橋 彪さん(福田史談会会長)

 

倉敷市水島に敗戦2年前につくられた軍需工場、三菱重工業水島航空機製作所が、1945年6月22日の大空襲により壊滅的被害を受けたことはよく知られている。だが倉敷には、この年の3月から5月までにも、中央2丁目や玉島沖などで、7回にわたって爆弾や機雷の投下されたことが、警防団日誌・役場日誌・三菱航空機製作所の日誌・体験者の日誌などの資料や回想で明らかになった。その度重なる来襲は、倉敷地区の防空体制を偵察し、航空機製作所を壊滅させるための周到な事前調査であったものと思われる。

 研究会では、戦局の推移にあわせて、これまであまり注目されてこなかった水島大空襲以前の倉敷・水島の戦災の様子を、豊富な資料をもとにスライドをつかって分りやすく説明する。


第二回研究会(3月6日)

植木枝盛と「民権自由論」―「共生」の課題―  報告者:小畑隆資(岡山大学法学部教授)

 現代日本の政治的社会的昏迷の根源には「無思想」とも評される思想的昏迷があるように思われる。思想がふたたび希望と活力を取り戻すことは可能なのであろうか。さらには、ヨーロッパとアジアの思想の坩堝である日本が、無思想的昏迷状況から抜け出すと同時に世界の思想的「共生」に何らかの積極的な役割を果たすことは可能なのであろうか。
ほとんど独学で西欧を学びまったく外国語が読めなかったにもかかわらず、西欧の基本的人権の思想を最も深く理解した思想家の一人と評されている植木枝盛の「民権自由」論を取り上げて、その限界と可能性を検討するなかでこうした問題解明への手掛かりを得ることができればと考えている。


第三回研究会(4月17日) 

岡山の中国「残留孤児」問題を考える

さる2月20日、中国「残留孤児」16名が岡山地裁に国家賠償をもとめ提訴しました。敗戦前後の中国東北部(かいらい「満州国」)で親と離別し、幼くしてとり残された中国で苦難の人生をすごし、帰国後も十分な自立支援を受けられず困窮生活をよぎなくされた人たちの人権回復のたたかいが始まりました。

 研究会では、報告1で、土地強制買収に反対する中国農民の大規模な武装蜂起「謝文東事件」の消長を軸に、岡山編成の歩兵第10連隊などが「反満抗日軍」を掃討したあとに、岡山から開拓団が入植したことを明らかにします。

報告2では、最近発見された拓務省作成の映画「我等は若き義勇軍」と、開拓団のモデルといわれた第七次四家房の長野県大日方村開拓団の生活を描いた映画「御陵威仁副」を上映し、岡山から送られた満蒙開拓青少年義勇軍と満蒙開拓団の問題を考えます。

報告3では、岡山訴訟弁護団の則武弁護士に、戦後補償裁判の現状と中国「残留孤児」訴訟の課題について説明してもらいます。

◎報告1:「満州」開拓団と中国農民武装蜂起「土龍山事件」上羽 修さん

◎報告2:幻の映画「我等は若き義勇軍」         青木康嘉さん

◎報告3:中国残留孤児国賠訴訟について 岡山訴訟弁護団 則武 透さん


第1回戦跡見学会 (5月15日)

美作の戦争遺跡をめぐる   案内:見土路 清さん

 

 東洋一の硫化鉄鉱山として、戦時中、国内外から多くの人が動員された柵原鉱山は現在廃坑となっていますが、まだ様々な関連施設が残っています。また津山市横山の山あいにあるアジア太平洋戦争中に操業をはじめた「帝国鉱業開発会社津山中央選鉱場」の施設跡を見学し、物と人が戦争に動員されていったようすを考えます。

 日本原には広大な旧陸軍演習場があり、かつてここで訓練された精鋭がアジア侵略の尖兵として送り出されました。戦後は米軍が使用し、現在は中国地方最大の自衛隊基地として受け継がれています。基地の過去と現在を考えます。

戦跡見学コース

①柵原町

   ∇柵原鉱山:立坑跡・火薬地下工場入口・協和隊宿舎跡など

   ∇本経寺の代用セメント釣鐘

②津山市横山

   ∇津山中央選鉱場跡

③奈義町・勝北町

  ∇旧陸軍演習場の跡

  ∇旧厩舎跡(現:自衛隊駐屯地・日本原高校)

  ∇着弾地監視壕

  ∇演習場境界石柱・記念碑


第四回研究会(6月19日) 

南京大虐殺と中国人強制連行

 

 8月4日から9日にかけ、「中国侵略の現場にたち 被害者と交流する 第3回岡山の十五年戦争をたずねる旅」を行います。おもな目的は、日本軍による南京城内外での大虐殺の現場をたずね、そのときの惨状を被害者から直接聞くことと、北京市通県で、玉野に強制連行された幸存者や遺族と交流することです。研究会では、これらの問題を概観し、現在の課題を考えます。旅行参加者の事前学習会をかねています。

 ◎報告1:南京城と南京大虐殺          上羽 修
南京城内外における虐殺、性暴力の発生状況を確認し、今なお続く虐殺否定派の策動、研究の現状、運動の課題などについて考えます。
◎報告2:南京の後方支援部隊          青木康嘉
大虐殺の翌年8月に南京に駐屯した第五師団第一建築輸卒隊の行動を『陣中日誌』から読み解き、「後方支援」の実態を明らかにします。
◎報告3:玉野に強制連行された中国人      上羽 修
岡山県玉野市の日比製煉所に強制連行された133人のうち26人が死亡しました事件を、幸存者や遺族の体験から検証し、いまだに尊厳の回復されない人たちの思いにどのように応えるかを考えます。


第五回研究会(7月18日)

戦争とジェンダー ―「女性兵士」問題をめぐって―(動向紹介)

 

 報告者:難波達興

「戦争とジェンダー」は、テーマの限定であってもなお間口は広い。その中で、世界史的にみて、湾岸戦争以後の新しい動きに「女性兵士」創出の問題がある。イラク戦争の一局面でもある。「兵役」においても、男女は平等に扱われるべきか否か。女性も戦闘員として、男性と同じく「前線」に立つべきか否か。「否」とするなら、その論拠は何か。
「女性兵士」創出の現状(とくにアメリカ合衆国)と歴史について、議論や研究の動向を紹介し、戦争と平和の認識を新たな切り口で深めたい。
『岡山の記憶』第6号(2004年)の拙稿(p.80~93)を参照


第六回研究会(8月28日)

イラク人質問題と新聞報道

  報告者:小畑隆資

 

 今年4月にイラクで日本人3人が人質になった事件とその後の経過は、二つの意味において衝撃的であった。第一に、あの戦火のイラクで、戦争の犠牲に曝されている子供たちを救おうとしている日本人がいたこと、劣化ウラン弾の問題に生命をかけて取り組んでいる日本人がいたこと、戦争の真実をカメラでもって知らせようとしている日本人がいたこと、しかも、その三人が若者でありそれぞれが個人の信念にもとづいて行動していたこと、であった。これが、第一の衝撃であった。しかし、それに対する日本の議論、とりわけ一部のマスコミの議論や政府の対応は、そうした新しい芽を全力あげて封じ込め押しつぶそうとするものであった。転倒的な「自己責任」論の横行は、日本の 政治的言説空間がきわめて閉鎖的で歪曲されていることを露呈した。これが、第二の衝撃であった。イラク人質事件が提起した問題を、主として「読売新聞」と「朝日新聞」を取り上げて検証する。


第七回研究会(9月23日)

第3回岡山の十五年戦争をたずねる旅・報告会

 

2004年8月4日から9日まで、当資料センター会員16名が上海・南京・北京を訪問し、南京大虐殺の事件現場をたずね、玉野に強制連行された人や遺族と交流した。そこで感じたこと、得られたこと、今後の課題、「募集あんない」にかかげた目的はどこまで達成できたかなどを話す。


第八回研究会(10月16日)

戦後岡山の出発点を確認する-岡山空襲出石資料館の見学会

 

 岡山空襲出石資料館は、閉校した出石小学校の教室を借りうけ、2002年6月にオープンしました。資料館には岡山空襲の遺品などの資料が120点以上保管、展示されています。
04年7月までに小中学生ら7000人が入館し、平和学習の拠点となっています。しかし建物の取り壊しにともない、来年(05年)3月で使用できなくなります。
96年11月に「岡山市平和館の建設を求める会」は15万名(その後18万余名)の署名を岡山市長に提出、97年3月の岡山市議会では全会一致で「平和館」の建設を求める要望書を趣旨採択しました。しかし市当局は現在、デジタルミュージアム構想のなかで「平和館」を考えるという方向へ変質しています。来年4月以降の展示場所について市当局はいくつか提案してきましたが、被災地域内での展示を求める資料館側と大きな乖離があります。

 なお、岡山平和館の建設に関する事業をおこなうため「NPO平和推進岡山市民協議会」がつくられ、現在その活動の一環として出石資料館を運営しています。


岡山の十五年戦争を考える研究集会(11月28日)

 

第1部 教科書問題をめぐって (歴史教科書フォーラム)

報告1.教科書採択をめぐる情勢        杉本一郎

来年は中学校教科書の全国一斉採択がある。「つくる会」は日本会議などと連携し自民党(民主党の一部)
議員と癒着して採択運動に邁進していると考えられ、05年の採択問題は前回以上に厳しい情勢にある。
子どもたちに「欠陥」教科書を手渡さないため、どのように有効な運動を構築するかを考えたい。
報告2.「心のノート」について          平島正司
文部省作成の教材「心のノート」については、すでに多くの批判がある。ここでは、発達とか何か? 自立した人間とは何かを考えるなかで、批判の新しい視点を提起してみたい。

 

第2部 戦時下の 動員 

報告4.玉野・中国人強制連行事件

 ―『華人労務者就労顛末報告書』の内容を問う― 上羽 修

  46年3月三井鉱山日比製煉所が作成した同報告書が外務省外交資料館から見つかった。内容は詳細で事件の全般にわたる。だが生存者の体験と乖離し死亡率18%の実態は浮かんでこない。真実は何か、報告書の内容を点検する。

報告5.満蒙開拓青少年義勇軍―岡山県川上町の場合―  山内宏之

本報告では、岡山県下の満蒙開拓青少年義勇軍の送出状況を概観したのち、旧川上町域における送出状況を、当時の役場文書、義勇軍体験者へのアンケート調査・聞き取り調査、体験者の手記などによって明らかにしたい。今回は特に、応募状況に焦点を当てて、義勇軍を志願するに至る背景や動機について紹介する。

 

第3部 日本軍の陣中日記 

 報告6.『陣中日誌』の研究その3 

        ―第五師団第一建設輸卒隊―      青木康嘉

  今回の『陣中日誌』NO.3は、1940年1月から5月を分析しました。第五師団第一建築輸卒隊は、安慶に本隊を移し、漢口、大通、彭澤と高度分散配置となる。敵からの待ち伏せ攻撃を受けた彭澤分隊、慰安所を建築した大通分隊、感冒・パラチフスAに隊員の多くがかかった安慶本隊の様子を、イラク戦争と絡ませながら戦争の実態を明らかにします。

 報告7.ある輜重兵の陣中日記             見土路 清

  久米南町出身の小川荒氏は、中国で野戦病院付の輜重兵(特務兵)だった1937年~39年の2年間、陣中日記を克明にしるし、内地からの多くの通信にはきちんと返信し、カメラを入手して従軍の先々で多くの写真を撮っている。その内容を紹介する。

2003年度

2月15日 第1回報告会

  今年の活動計画や抱負を出しあい、情報交換


3月21日 第2回報告会

  3月1日発行の『岡山の記憶』第5号の合評会


4月12日 第3回報告会

 

 ①特別報告: 難波達興さん

「忘れていることを忘れている」と思いいたる可能性などあるのか

― セラピーを必要としている共同体 ―

下河辺美知子著 『歴史とトラウマ―記憶と忘却のメカニズム―』

 『岡山の記憶』第5号合評会(第2回報告会)で、難波達興さんが書評をかかれた『歴史とトラウマ』は、私たちが十五年戦争を問い直すうえでも重要な視点を提供していると考え、改めて難波さんから本の紹介をしてもらい、討議することになりました。次は書評の一部です。
元「従軍慰安婦」を例に、著者は「非在の歴史をすくい上げるためには、浮遊しているレファレント(指示対象)を言語につなぎ止め、それを肉声によって語ることで顕在の歴史の中に届ける証言者の身体がいる」(三五八頁)という。その声を聴きとり、言葉を与えるための脈絡を探すのは、われわれの仕事である。その際、留意すべきは、証言者の肉声を「言葉」として聞くのではなく、「声」として聴くべきであるということだ。証言者の「言葉」に事実のみを求めるのは誤りであろう。「声」を聴き、資料を発掘することによって、事実を発見し、<脈絡>をつけ言葉にするのは、われわれの役割なのだ、と著者は的確におさえている。同時に、そうした役割を担いつつ非在の歴史を問うとき、われわれはいつも「われわれ」自身を問い直していく必要がある(三五九頁)。

 

 ②報告:旧第17師団司令部の保存をめぐって…県下の戦跡は大丈夫か? 上羽 修さん ほか
    同司令部は一部移築保存となったが、外壁は戦後改修されたままで残すのか、などの保存のあり方の検討が求められている。また、こうしているうちにも多くの貴重な戦跡が知らないうちに消滅しているのではないだろうか


5月24日 第1回研究会

テーマ:戦争体験の聞き取り方法

 戦争体験者が年々激減する現在、戦争体験の記録が急がれています。当資料センターでは「戦争体験聞き取りプロジェクト」を今年度から2年計画で取り組んでいます。将来、MD(ミニ・ディスク)ライブラリーのような形で公開することを目的にしています。
こうした目的で行なう聞き取りは、従来行なわれてきた特定目的のための記録と異なり、独特の問題点をもっています。また当然、欧米のように大きな機関が潤沢な予算を使って実施するオーラル・ヒストリープロジェクトとは別の、この資料センターに適した独自のマニュアルを作っていかなければなりません。
戦争体験の聞き取り経験者や、収集された記録を利用したいと思っている人たちが集まり、有用な記録の方法について話し合いたいと思います。


6月15日 第4回報告会

報告: 勝田郡粟広村日記を読みとく        見土路 清さん

 『勝田郡粟広村史』のなかに、村長が十五年戦争期に書き残した日記が収載されている。そこに記された各種団体の動向や行事から、当時の婦人や企業労働者、教員、役場職員などがどのようにファシズムに組み込まれていったかを読みときたい。


7月19日 第2回研究会

 講演:近代日本の選択―近代日本の大国主義と戦前戦後における小国主義の位置、可能性、意義を考える

演者:姜 克實さん
内容:
(1)日本近代化の特徴――大日本主義の膨張路線
文明開化と侵略戦争/近代化の背景/文明開化と富国強兵
(2)侵略戦争の歩み(=侵略戦争はいつからか)
15年戦争からか/「誇り」とした日清日露/近代侵略戦争の始まり―征韓論、台湾出兵、
琉球処分 
(3)なぜ侵略か(=侵略、膨張政策に対する構造的理解) 
文明化の帰結/持たざる国の論理/後進者のどん欲/知識人、有識者の限界
(4)ほかの選択肢――小日本主義の系譜(=小日本主義系譜のアウトライン)
遣欧使節団の報告書/中江兆民、幸徳秋水/東洋経済新報の小日本主義(植松考昭、三浦銕太郎)
(5)石橋湛山の小日本主義
(=現実化された、石橋湛山の小日本主義を、経済理論を中心に話す)
・政治理論の根拠――新自由主義
・石橋湛山経済思想の転換――公平な分配から生産の発展へ
・資本主義救済の理論――国内生産力発展論 ケインズ主義、積極財政、世界経済論
(6)戦後の日本の針路(=小日本主義の戦後復興における意義を話す)
未解決の命題/石橋湛山の復興理念/高度成長を支えたもの


8月30日 第5回報告会

英田郡粟広村日誌を読みとく②   見土路 清さん

 『勝田郡粟広村史』のなかに、村長が十五年戦争期に書き残した日記が収載されている。そこに記された各種団体の動向や行事から、当時の婦人や企業労働者、教員、役場職員などがどのようにファシズムに組み込まれていったかを読みときたい。

 前回は、報告者が昭和11年から20年までの村の主な行事などを抜書きし、15年までの説明と「済世会」「青年学校」などについて説明したが、時間不足のため、後は次回に報告することとなった。村民の軍国主義への動員体制が刻々と強化されていく様子が『村史』に如実に示されいる。
そのことについて報告者は、丸山真男の『日本ファシズムの思想と運動』を引用し、「国家的統制ないし支配層からのイデオロギー的教化」は、小地主や自作農上層などの「第一の類型」の層を「通過し、翻訳された形態で最下部の大衆に伝達される」という丸山真男のいう「社会的担い手における特質」に合致していると説明した。
しかし、「国家的統制ないし支配層からのイデオロギー的教化」が村へ到達する前に種々の屈折や抵抗を経ていることを見逃すべきでないという意見や、村でどれほど実施できたか、まして個々の村民をどれほど内心から教化できたかについては慎重に検討しなければならないという意見もあった。
内容豊富な「村史」を、多面的に検討する。


10月13日 戦跡見学会

玉野の戦争遺跡をめぐる ―そこは、軍需産業と戦時動員者の坩堝だった

案内 青木康嘉さん

潜水艦などの軍の艦船を造っていた三井造船、砲弾の材料となる銅を精錬した日比精錬所、火薬をつくっていた由良染料などがある軍需産業の町、玉野―そこには、学徒勤労動員された青年や徴用者ばかりか、朝鮮人強制連行3500名、中国人捕虜132名、英・豪軍捕虜約200名もいた町でもありました。 こうした戦時下の様相を今につたえる戦跡をたどり、平和について考えます。

◎戦跡見学コース
①玉野競輪場:爆弾庫・日の出公園山頂より玉野市全体を鳥瞰する
②宇野中学校:協和隊宿舎跡・防空壕(のち、備南電鉄=現在自転車道)
③レクレセンター駐車場:三井病院・養元寺・大仙山(コンクリート構造物)
④三井グランド前:グランド・変電所(憲兵隊跡・武徳殿)・備南高校跡(青年学校・防空壕跡)・地下軍事工場跡(2か所案内し説明)
⑤深井:若潮造船隊跡(朝鮮の少年72名・少年院の子ども)・由良染料(海軍の火薬製造)
⑥日比:日比と日比精錬所を結ぶトンネル跡(その出たところに英・豪軍白人捕虜約200名収容所があった)・日比遊郭跡・正善寺 ・日比観音院(日中友好の鐘)
⑦日比精錬所:太郎煙突・中国人捕虜収容所跡


11月30日 岡山の十五年戦争を考える研究集会

第1部 戦争遺跡

報告1.岡山県下の戦争遺跡調査(中間報告) 戦跡考古学フォーラム

 岡山県下の戦争遺跡として当資料センター会員らから寄せられて情報数は2000年8月31日現在113件にのぼり、これらを順次調査してきた。このうち「岡山県の戦争遺跡」(『続しらべる戦争遺跡の事典』(柏書房、2003.6)に掲載した38件について紹介する。

 

第2部 村民の十五年戦争

報告2.英田郡粟広村日記を読みとく     見土路 清

『英田郡粟広村史』のなかに、村長が十五年戦争期に書き残した日記が収載されている。そこに記された各種団体の動向や行事から、当時の婦人や企業労働者、教員、役場職員などがどのようにファシズムに組み込まれていったかを読みときたい。

 

報告3.川上町史にみる十五年戦争     山内宏之

吉備高原に位置する川上町域における戦時下の村の状況を、『川上町史』(1994年刊)をもとに紹介する。村葬の執行、警防団・家庭防空組合の結成、在郷軍人会の活動、学徒出陣の開始、女子挺身隊の編成、疎開者の受け入れなどの資料を通して、当時の村民と戦争との関わりをみる。

 

第3部 中国戦線

報告4.『陣中日誌』の研究その2―第五師団第一建設輸卒隊― 青木康嘉

その1では、37年第五師団(広島)の渡部中隊編成から、上海から南京攻略前後と杭州での38年7月まで滞在中の任務・疾患などを分析した。今回は、38年8月の南京から1月までの漢口の「後方支援」を対象とし、「兵站慰安所」建築や士気弛緩、中国人との関係を紹介する。

 

報告5.「岡山郷土部隊」と治安粛正作戦(6)

―日本軍戦闘詳報にみる中国河北省「北村事件」―   上羽 修

日本軍部隊の戦闘詳報ともいえる文書と元兵士の回想から、毒ガスによる集団虐殺事件「「北村事件」の真相と抗日根拠地にたいする燼滅掃討作戦の実態を明らかにする。

総合討論
  まとめ                   小畑 隆資

 

2002年度

1月20日 講演会:

私の従軍六年を振りかえり~『日本、東洋鬼子』の著者の「三光作戦」従軍記

講師:岡部正実 (歩兵第139連隊の元下士官)
斬首、毒ガス、強姦なんでもあり分隊の分隊長"サソリ軍曹"。河北省の抗日
根拠地に対する治安粛正・燼滅・掃討作戦(「三光作戦」)に参加。
1998年に戦争の「虚構なき事実」を記した『日本、東洋鬼子』を出版。

  

2月23日 第1回報告会

個人・フォーラムの調査・研究の進捗状況、計画などを出し合い、情報交換。


3月21日 第2回報告会

『岡山の記憶』第4号(2002.3.1)の合評会


4月13日 第1回研究会

大阪の平和館「攻撃」と私設「教科書資料館」の運営

◎講師:吉岡数子さん(平和人権子どもセンター・教科書資料館代表)

 岡山天満屋地下ギャラリーで毎年開催されていた「平和のための戦争展」が右翼攻撃に屈した百貨店側により会場使用拒否されたのは2000年のこと。さらにその4年前の96年、堺市立「平和と人権資料館」で、企画展「大阪にもあった中国人強制連行展」への右翼団体の攻撃・妨害に、行政側は一日で変質、職員も総入れ替えという事件がありました。その渦中にいたのが吉岡数子さんです。吉岡さんは89年から、平和と人権を標榜する同施設に共鳴して教員を辞め嘱託勤務していましたが、この事態に直面し、私設の「教科書資料館」のオープンに踏み切りました。

 

 また、大阪国際平和センター(ピースおおさか)も右翼・議会右派の執拗な攻撃で変質しつつあります。これに対し吉岡さんら府民が平和発進基地のため懸命に支えています。

 

 このように右翼の平和館攻撃の渦中にあった吉岡さんに、公立ミュージアムがかかえる問題、そして今や全国的に注目されている私設「教科書資料館」の運営について、お話してもらいます。どなたでも参加できます。ぜひ、お気軽に!

吉岡数子さんのプロフィール

 1932年朝鮮に生れ、37年傀儡「満州国」へ移住。44年日本へ帰国。敗戦で教科書の墨ぬりを体験する。55年京都学芸大学を卒業後、大阪・堺で小学校教員。平和・人権学習の教材化・パネル化に取り組む。91年退職し、堺市立「平和と人権資料館」に嘱託勤務。97年に退職金などを投入して私設「平和人権子どもセンター」を設立、その後「教科書資料館」を併設。
平和人権子どもセンター「教科書資料館」吉岡さんが教員時代に集めた教科書約500冊、個人寄託の教科書約200冊、家永教科書裁判訴訟支援大阪地区連からの寄託教科書約4500冊など、5800冊以上の教科書を展示。教科書・アジア侵略を伝える100枚を越えるパネルセットの貸し出しと「出前展示」・講演をおこなっている。


5月6日

本土決戦 岡山の戦跡をあるく ―操山西部地区(東山)かいわい

◎案内:日笠俊男さん

1945(昭和20)年3月11日、東京大空襲の翌日、小磯首相は、「われわれは、本土が戦争になるときに備えて準備をしなければならない」(趣意)と帝国議会で演説した。日本敗戦の最終段階のそのまた極限でのいわゆる"本土決戦"。

 その準備はこの東山の地でもなされたのだ。そのことを忘れてはならない。飛行機工場が分散疎開してくる。軍隊が、学校や寺院に分散分駐する。操山丘陵に陣地が構築される。特攻機の滑走路が建設される。国民義勇隊が動員される・・・。前線と銃後が一つになる。東山の地も戦場となったのである。

戦跡見学コース

①岡山空襲資料センター(日笠家の壕=レプリカ):集合場所

  ②操山公園 元三勲神社下の小広場(陣地構築のポイント or 遺構?)

  ③操山山ろく少林寺(国富、海軍監督官庁のコンクリート壕)

  ④山陽高等女学校跡(御成町/徳吉町、倉敷航空化工分散疎開工場)

  ⑤東山公園(招魂社跡)

  ⑥岡山大学教育学部付属小・中学校東の操山山ろく

    (門田本町、岡山師範学校男子部の横穴壕)

  ⑦国際ホテル附近(文化町、陣地 or 物資埋蔵?)

  ⑧奥市公園(護国神社・顕彰碑):解散場所


6月8日 第3回月例会

    講師:難波達興さん

 (1)特別報告:「近代の超克」・「京都学派」・「世界史の哲学」:難波達興さん 「大東亜戦争」を哲学的に意義づけ・根拠づけ(正当化)たとされる高山岩尾の『世界史の哲学』の批判的な読解を試みる。このテーマは、戦時下1940年代前半の「世界史の哲学」・「近代の超克」・「京都学派」といった一連の巨大の問題群につながる。昨今のその「復権」の動向とその意味についても言及する。

(2)各自・各フォーラムの報告・情報交換
  ○青木康嘉さん:『第5師団第1建築輸卒隊陣中日誌』渡部部隊の研究
  ○日笠俊男さん:操山西部地域(東山)かいわいの戦跡
  ○その他


7月23 第4回報告会

関西高校所蔵史料にみる戦前・戦後

報告:難波俊成さん

 私立関西高等学校は1887年(明治20年)の創立で、古い卒業生の中には明治34年卒の今井田清徳(朝鮮総督府政務総監)、同35年卒次田大三郎(幣原内閣書記官長)、同37年卒松本学(内務省警保局長)、同38年卒赤木朝治(内務次官)などがおり、昭和初期から終戦前後にかけて官・政界で活躍した。
 彼らは生前しばしば帰校しては、後輩たちを励ましていた。そのようなこともあって次田と松本の二人は、多くの書籍類を学園に寄贈したが、書籍類に混じって昭和史の重要文書類が持ち込まれていた。
 同校教諭の難波俊成さんは、長くそのままの状態で保管されていたこれらの書類の整理に着手、 1991年に『次田大三郎日記』(山陽新聞社)を共編で出版した。同書の後半には次田家と同校所蔵の文書類が掲載され、広田内閣法制局長官時代史料、幣原内閣書記官長時代史料、東京裁判供述関係史料、来簡類が紹介されている。
 また松本学がもたらした文書は、警保局長当時のものが中心で相当数にのぼり、右翼、共産主義、選挙法、思想対策、日本文化中央連盟など多岐にわたっている。その一部は国立国会図書館でマイクロ化された。
 松本学文書のなかには、長野県教員赤化事件に関するかなりまとまった史料もあり、まさに近現代史史料の宝庫のなかで、難波さんはその整理と研究に従事している。


8月30日 第5回報告会

◎報告1:華北における日本軍将兵の心情と論理      報告者:上羽 修

 最近中国側は「抗日戦争」での中国人死傷者数を3500万人という公式見解をとっている。藤原彰は、日本軍による南京大虐殺よりも残虐行為・犠牲者数が「深刻でしかも規模が比較にならないくらい大きいのが、華北の共産党軍根拠地にたいして、日本軍が行った燼滅掃蕩作戦である」と述べている。この作戦を中国側では「三光作戦」(焼きつくし、奪いつくし、殺しつくす)と呼んだ。さらに笠原十九司は、「三光作戦の規模と実態と被害、そしておおよその全貌が具体的イメージをともなって知られるようになれば、日本国民の日中戦争にたいする『歴史認識』はより事実に立脚したものになるにちがいない」と、日本国民の「三光作戦」理解の必要性を指摘する。岡山編成の部隊も「三光作戦」に参加している。ところが岡山県議会は1996年12月、中学校教科書から「従軍慰安婦」「三光作戦」の記述削除を求める陳情を、都道府県レベルでは全国で初めて趣旨採択した。「三光作戦」は「作り話」、という陳情理由を公認したのである。

 こうした地域ぐるみの歴史の偽造をただし、中国侵略の内実を豊かにイメージするには、「三光作戦」にともなう残虐行為を現地軍の作戦との関連で明らかにするのみではなく、日本軍将兵がどのような心情と論理のもとに実行したかを理解することが大切であると思う。

 日本軍は抗日根拠地への大兵力による「作戦」を終えると、それぞれの部隊の警備地区に戻り、小兵力を分散させて配置した。今回の報告では、この高度分散配置時に増幅された軍隊秩序の矛盾と将兵の葛藤を、元兵士の聞き取りから明らかにし、それらの矛盾や葛藤が日本軍自滅の危機を招くとともに、一旦抗日根拠地へ大兵力で「作戦」に投入されたときに残虐行為を引き起こす要因となったことを考察する。


◎報告2:「瀋陽・撫順の旅」 :                報告者:青木康嘉

 8月2日から中国東北部「瀋陽・撫順の旅」に出かけました。昨年秋、新見市の池田和正さんから、「私の叔父池田邦夫(15歳)は満蒙開拓青少年義勇軍にいって、昭和20年12月7日に瀋陽で死んでいます。私は只一人の遺族ですが、なぜ、どのような形で、どこでなくなったか知りたい。調べてもらえませんか」という依頼があった。

 

 池田邦夫さんー昭和4年1月15日生まれ、義勇軍ではなく、満州鉄工青年技術訓練所(茨城県)を3ヶ月行った後、南満州鉄道奉天機関区で雇員として採用され、機関助手として石炭をくべる仕事をしていました。昭和20年6月10日に肺浸潤になり12月7日奉天市平和区紅梅長16番地青雲寮で死んだ事を調べて、報告しました。

 私は、当時の地図から青雲寮の場所も確認しました。池田和正さんの執念で、青雲寮に住み、池田邦夫を焼いた場所まで証言を得ました。そうした場所に慰霊へ行くのが今回の目的です。しかし、9・18事変博物館や、平頂山惨案記念館など学習もかねています。


9月23日 第6回報告会

1)特別報告:戦跡考古学フォーラム近況報告        西川 宏

― 岡山市民の足元から「壕」が続々と ―

   ◎岡山市国富から「海軍監督官宿舎の防空壕」
    ◎岡山理大の通学路直下から「歩兵砲関係の地下壕・横穴壕」
    ◎池田動物園の隣から「陸軍病院・海軍衣料廠関係の防空壕群」

(2)その他の報告

 ◎傀儡「満州国」記録映画の試写会(一部)        見土路 清  「満州国」の官僚だった日本人が持ち帰った9.5ミリフィルム(フランス製)がようやくDVDとビデオに変換できました。討伐や斬首と思われる映像や日本人を中心とした祭りの様子などが映されています。

 ◎日比精錬所(玉野市)に強制連行された中国人とその遺族を探し出す    上羽 修

 9月に北京市通州区を訪ね、生還者14名(現存者:2名、遺族:12名)、日本での死亡者の遺族:6名、不明:1名、合計21名に会った。また岡山以外への被連行者または遺族の4名にも会った。ようやく日比精錬所への連行と労働の実態が白日のもとに晒されるときがきた。


11月2日 第2回研究会

中国山西省での戦争と沖縄戦を戦った一兵士として    近藤一

生きている場が、突然なんのかかわりもない「大義」のために"戦場"になり、愛する人たちが殺され傷つき、性暴力にさらされ、子どもたちから希望が奪い取られる。私たちの誰もがこのような状態にいつ突き落とされても不思議ではなく、このような恐怖を生きる人たちをつくり出す側にいつ立つかもしれないし、立っているかもしれ ない―――こんな時代を私たちはいまも生きています。
 20世紀の戦争と戦場に起こった現実を、その現場にかかわったさまざまな人たちから証言として聞くことは、戦争と戦場の現実を知る上で大切なことだと思います。

 しかし、それ以上に大切なことは、侵略・支配された村の村人や女たち、侵略した

軍隊の兵士・軍人、戦争を熱烈に支え空襲・戦場を経験した国民・・・過去の戦争の現場を異なる位置で体験した一人一人が、それぞれの被害・加害にどう向きあって生きてきたか、今どう向きあってこの時代を生きようとしているかということであり、その長い歳月の歩みから何を受け継ぐべきか、戦争と暴力の連鎖を断ち切るために何ができるかを私たちが考えることではないでしょうか。

 私たちはこれまで、戦場となった中国山西省の村で性暴力被害を受け、今裁判に立ち上がっている女性、その村に生きてきた男性、南京大虐殺の幸存者などを岡山にお招きしてお話を聞いてきました。今回は旧日本軍一兵士として山西省で「燼滅掃蕩」戦を経験し、さらに沖縄戦に送り込まれて九死に一生を得た近藤さんのお話をお聞きします。近藤さんは戦後今まで何十回も沖縄に足を運んで「虫けらのように」命を捨てさせられた兵士たちの死を見つめ、その戦争を語りつづけ、また、近年は私たちと一緒に山西省の最前線だった村に何度も行かれ、被害者たちと直接向きあおうとして来られました。命あるかぎり自らの戦争の現場に通いつづけ、語りつづけようとされる近藤さん。じっくりお話を聞いて、戦争の体験を語りつぎ、聞きつづけることの意味を考えましょう。

主催:11.2「近藤さんのお話を聞く会」


12月1日 岡山の十五年戦争を考える研究集会

第一部 中国からの動員

報告1.「悲しみ」をいかに分有するか―玉野へ強制連行された中国人を訪ねて―上羽 修

 戦争末期、日比精錬所に中国人133名が連行され26名が死亡した(精錬所内24名)。2002年9月北京市通州区で、生存者2名、遺族14名に会った。傷つけられた尊厳も名誉もいまだ回復していなかった。連行時や日比精錬所での待遇などを報告。

第二部 岡山県下の動員

報告2.十五年戦争中の美作地区における学徒勤労動員の記録   見土路 清

 寒暑に耐え空腹を強いられながら懸命に戦争に協力した若者の記録は、お国のため、公のため、個人の希望・幸福を犠牲にしなければならなかった時代の遺産である。

報告3.東山の健民修錬道場 ―『聖戦』下の動員体制―   日笠俊男

 「健民」「健母」「健民強兵」。『聖戦』下の人的資源かく保の一側面。東山の「少国民」の記憶をもとに、岡山で殆んど語られてこなかった事実の掘り起こしから、いわゆる"根こそぎ的動員"の矛盾に迫る。中間報告。

第三部 中国戦線

報告4.『陣中日誌』の研究 ―第五師団第一建築輸卒隊―  青木康嘉

 1937年10月12日から始まるこの『陣中日誌』は、第五師団第一建築輸卒隊として、3年間に渡る日中戦争の記録である。第1次史料であり、史料的な価値は高い。この『陣中日誌』から分かることを多角的に分析して、日本軍の日中戦争にかかわっていく問題点を指摘したいと思う。今回は、その第一弾として、上海上陸-南京攻略-杭州駐屯の約1年間を紹介する。

報告5.「岡山郷土部隊」と治安粛正作戦(5)

―阜平県平陽鎮における日本軍戦闘詳報と中国「惨案」記録―    上羽 修

 歩兵第110連隊(岡山)も参加した「十八年秋季冀西作戦」は多くの住民虐殺事件を起こした。阜平県平陽鎮近辺の燼滅掃蕩を担当した日本軍部隊の戦闘詳報と中国側資料『平陽惨案紀実』から「三光作戦」の実態を考察する。