銃後・少年

 昭和一五年五月一五日より三〇日まで一五日間、修学旅行として満州、朝鮮を旅行した。卒業学年の約百名で、前年と今回の二回だけで打ち切りとなった。戦争に突入したからである。参加できた私たちは実に幸いだった。後々まで私の対中国観、大陸観、島国日本人観にかなりの影響を与えたことは確かである。百聞は一見に如かず、歩いてみなければ分からない。岡山駅より列車で敦賀に行き、すぐ乗船した。日暮れである。船中に三泊した。船のいちばん底、倉庫にでもなるようなところで、板敷き。そこにごろごろ過ごしたのである。≫≫≫

学徒動員
 五時半ごろ起床する。早く用意して六時半ごろ家を出る。今日から、考査(入学試験)が始まると思ふと、少しも落ち着かない。汽車はたうたう津山駅についてしまった。各学校への受験者は汽車にいっぱいであった。技芸学校(現 作陽高校)へ来てみるといっばいの人であった。みんな胸をおどらせながら、楽しさうに語っていた。久しくして講堂に入る。私はC列の前から十二番目であった。つぎつぎに番が来て呼び出される。私より三番の人まで午前中に済んだ。後へかえって弁当をいただいて、少ししているまに始まる。わからない所があった。少し遅くなって、三時五十分高野着の汽車で帰る。≫≫≫
国民学校・学校日誌

 本誌編集フォーラムから、戦時下の国民学校の学校日誌を入手したので紹介文を書いてほしいとの依頼があり、お引き受けしたが、これがなかなかの難物だった。この日誌には事実が簡潔に列挙されているだけで説明や感想は皆無であった。これを手がかりに当時の学校や社会の実態を再現するには、多面的な調査・研究が必要だが、それを行う能力も時間もないので、同時代に少年期を送った自分の経験だけを頼りに読み解いてみた。≫≫≫

軍国少年

 治安維持法に死刑が追加された翌年、山本宣治が刺殺された年(一九二九年)の十二月に、私は、貧しい農家の長男として生まれました。生まれたのは、中国山地の三坂山(九〇二㍍)と摺鉢山(八七九㍍)の間に連なる鋸歯山に分け入った深い谷間で、電気もきていない山生(岡山県真庭郡美和村大字樫西=現在は久世町)という所でした。≫≫≫

岡山空襲

 私は泣くまいと唇をかみしめ、必死で走っていた。

 それは、京子がやっと一二歳になったばかりの昭和二〇年六月二九日、未明のことであった。突然、岡山全市が大空襲を受けたのである。その時、祖母と京子は疎開先の小屋の裏の竹薮に近所の人達と身をひそめて、はるか岡山あたりの空が炎で真っ赤に染まり、舞い上がる火の 粉と赤く光る灰が黄金を散りばめたように見えるのを呆然と眺めながら、頭上をゆきかうB29の恐ろしい爆音にふるえていたのだった。≫≫≫

日本原演習場

あかざただし

 陸上自衛隊日本原演習場…!。西日本最大級だそうだ。
 私はこの演習場と並々ならぬ係わりを持って今日まで生きてきた。
 ここには現在、戦車部隊や砲兵部隊などが駐屯しているほか、しょっちゅうどこかの部隊がカーキ色の車両を連ねて、演習にやって来る。思い出すままに、敗戦前からの演習場と私の係わりの一部分を綴ってみることにする。 ≫≫≫

国民学校・学童疎開

 芦屋に生まれる。
 わたしは、昭和一○年五月生まれの四人兄弟の末っ子です。生まれた所は、兵庫県芦屋市津知町一の坪九二番地の借家でした。わたしが、芦屋に生まれと言えば、ほとんどの人に、良い所にお生まれになったんですね、とあたかも私が金持ちのぼんぼんであるかのような羨望の目で見られました。それは全くの誤りですと、誤解を解くのにうんざりしていました。。≫≫≫

 

 私は一九三八年三月に、岡山県久米郡大井西村中北上(現津山市中北上、合併前は久米町)に生まれた。従って敗戦時は小学校(当時は国民学校といった)二年生のときである。
 県北の農村であるから、当然のこととして暮らしは苦しかったが、空襲などはなく、岡山空襲や広島原爆のことさえ知らずにいた。
 私は男五人兄弟の三男だったが、年齢の関係で父も兄弟も徴兵されることはなかった。しかし親戚では、多くが戦死している。≫≫≫

和解

2000年に「TO END ALL WARS」、日本語で「エンド・オブ・オール・ウォーズ」という映画が撮影されました。これは元捕虜だったアーネスト・ゴートンの著書『クワイの谷間を越えて』の映画化です。原作は本当に彼が捕虜の1人として苦労しながら何を学んだかという人生哲学の本です。捕虜たちが日本軍の虐待によって利己的になり、自分の食うことしか考えられなくなったときに、彼が何に目覚めたかという人生哲学、そして最後にはキリスト教の神髄である「汝の敵を愛せよ」という、そういうところまで突き詰めていっている。彼はイギリス人ですが、戦後アメリカの国籍を取りまして、プリンストン大学の教会長までなった立派な人です。私も撮影のときにも会いましたし、その前にも会って、立派な人だと思っていました。

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ビルマ戦線

1941年12月8日のパールハーバーのとき、私は大学2年生でした。朝6時半か7時ごろ、ちょうどラジオ体操をやっていたとき、ラジオ放送で「大本営発表、今未明、国海軍は米国真珠湾を攻撃せり」という発表があったんです。それまでの「満州事変」から「支那事変」にかけては、あちこちで勝ったときに提灯行列したりして、平和な世の中でしたね。 大本営発表で日本軍が真珠湾を攻撃したことを知って、私は「しまった」と思ったんです。その意味はね、私たち同年の若者はみんな喜んで「勝った」と思ったんです。≫≫≫

桜花

 昭和18年11月華北より帰還し翌19年2月に私は現倉敷市水島にあった3菱重工業水島航空機製作所に入所して海軍機の1式陸攻(G4M1~3)を作っていました。私は第2組立に属して胴体組立のうち爆弾倉を作り、いわゆる鋲打ち作業をやっていました。 ≫≫≫

中国華北戦線

 昭和14年(1939年)8月1日、私にも臨時召集が来た。お前のようなチビに兵隊に来いと言う前に小牧さんの奥さんの克子さんの方が早く来るぞ、とからかわれていたが、本当に来たのだ。8月10日の入営だ。岡山の歩兵第10連隊補充隊という所だそうだ。7月末西宮市役所まで行って赤襷をもらって、市からも餞別の金1封をもらい、大井手町でも町内より歓送式をして頂いた。そして岡山の家へ帰ってまた歓送式をしてもらい岡山へ入隊した。満21才の8月だった。現役兵と大差なく、だいたい同じくらいの年齢での入営だった。村の境まで送ってもらって万歳3唱でお別れだった。 ≫≫≫

中国華北戦線

 水島航空機製作所の立地
 昔々の水島の様子から本題に入りたいと思います。
 亀島山地下工場を語りつぐ会の皆さんの出版本に記載されたものと重複しますが補足説明します。
 高梁川は500年前までは、酒津を河口としていました。  ≫≫≫