軍隊

 『岡山の記憶』第一三号に載った「戦火の恋文 妻から戦場の夫に送られた軍事郵便」の残り四五通の書き起こしがそろそろ終わりに近づいた頃だった。確か二〇一一(平成二三)年九月下旬だったか、岡山・十五年戦争資料センター事務局長の上羽修氏から「預かったままのハガキを早く遺族に返さないといけないのですが、その目途が立たず、困ったものです」というメールと共に夫からの軍事ハガキ数枚が添付されてきたのだ。≫≫≫

 今年は学徒出陣から七〇年、わだつみ像建立から六〇年に当ります。一九四三(昭和一八)年一〇月二一日、秋雨けむる東京・神宮外苑での水しぶきをあげて進む学徒の分列行進の姿は、軍楽隊の演奏する「敵は幾万ありとても総(すべ)て烏合(うごう)の衆(しゅう)なるぞ」の曲と共にテレビでもよく放映されますが、彼らを待ち受けている運命を思う時、涙なしには見ることができません。≫≫≫

 二〇一〇(平成二二)年春、十年間も一人暮しを続けていた父が突然心筋硬塞で倒れ、日赤病院に担ぎ込まれた。一時はどうなることかと心配したが、九十二歳という高齢ながら容態は快復し、家の近くの特別養護老人ホームに入所するまでになった。
 残された実家の中は、勝手気ままに生活してきた父の身の回りの雑多な物で溢れ返っていた。若い頃、厳しい軍隊生活を体験していたこともあり、元来几帳面だったはずだが、母を五年前に亡くしてから次第に身辺が荒れてきていた。≫≫≫

核兵器

 二〇一〇年五月三日から国連で開かれる核不拡散条約(NPT)再検討会議の成功を目指してとりくまれた「5・2国際行動デー」とその関連行事に参加するため、倉敷医療生協から私を含む四人がニューヨーク(NY)に行きました。岡山県から二九人、全国であわせて被爆者一〇〇人を含む一六〇〇人が参加しました。
≫≫≫

 五日、NHK総合テレビで「原爆投下を阻止せよ」という番組が放映されました。ネットの「NHK番組表」には、次のような解説が載っています。「一九四五年、米政権中枢では、原爆を投下すべきでないとの意見が圧倒的多数を占めていた。しかしその理由は、人道上の配慮ではなく、ウォール街のビジネス戦略に基づくものだった。一方、原爆投下を主張した一派の目的も、日本との戦争を早期終結させることではなかった。≫≫≫

 二〇一〇年夏のNHK総合TV番組で最も注目されたのは「原爆投下を阻止せよ」でした。ポツダム宣言に「天皇制存続」を明記させれば日本政府は受諾し易くなり、原爆投下なしで終戦可能と米政権内で大きな動きがあったという新事実の公開でした。TVでは原爆投下に変っていく経過を追い、「天皇制存続」条項は削除されますが、私はそれに対する日本側の対応を付言したい。≫≫≫

原発

坪井あき子

 二〇一二年四月、ある地方紙の投稿欄に、東日本大震災のがれき処理について次のような趣旨の意見が載った。「一時はボランティアや義援金などでみんな協力したが、のど元過ぎれば、なのでしょうか。自分の住んでいる地域だけは協力してほしくないと思っている人も多いということなのでしょうか。とても情けない。被災地のがれきの放射線は測定され、危険なものは他の地方へ運ばれないはずです。被災地の復興の足かせとなるがれき処理だけは全国の自治体に一致協力してほしいです。」≫≫≫
 沖縄戦での「軍の関与」による「集団自決」を司法判断によって「美しい国」の美談にしたてあげようとする企てが、今年4月21日、最高裁判所による原告の上告棄却の決定によって退けられた。「集団自決」への「軍の深い関与」を認めた二審・大阪高裁判決が確定した。『沖縄ノート』(1970年)に対する名誉毀損訴訟の形で争われ被告席に立たされた大江健三郎は、「沖縄戦の真実がずっとあいまいなまま、米軍基地があり続けたのが戦後一番の問題だった」と語っている。≫≫≫

  東京電力・福島が起こした「3・11原発震災」で、〝耳にたこ〟の言葉に、「想定外」と並んで「風評被害」がある。「風評」とは、「世間の評判」とか「うわさ」のことであるが、それにはデマとホント、両方のケースがある。政府が「風評被害賠償」という場合は、基本的には「出荷停止」とか「摂取制限」の指示を受けた農作物、水産物などが対象にされている。私は、これを風評被害とは言わない。停止や制限の根拠の正否はともかく、何らかの公式的な措置の結果であり、根も葉もない「風評」がもたらしたものではない。まさに「実害」(だから問題がないと言っているのではない)である。≫≫≫

 東京電力・福島が起こした「3・11原発震災」で、〝耳にたこ〟の言葉に、「想定外」と並んで「風評被害」がある。「風評」とは、「世間の評判」とか「うわさ」のことであるが、それにはデマとホント、両方のケースがある。
 政府が「風評被害賠償」という場合は、基本的には「出荷停止」とか「摂取制限」の指示を受けた農作物、水産物などが対象にされている。私は、これを風評被害とは言わない。停止や制限の根拠の正否はともかく、何らかの公式的な措置の結果であり、根も葉もない「風評」がもたらしたものではない。まさに「実害」(だから問題がないと言っているのではない)である。 ≫≫≫

 〝ヤブから棒〟というより、〝火事場ドロボー〟といった方が的を射ているかもしれない。二〇一二年六月二〇日突如、国民の目の前に飛び込んできた「我が国の安全保障に資する」という文言である。消費増税案件が、すったもんだの挙句に、「税と社会保障の一体改革三党合意」なるもので、ひとまず片が付いた。 ≫≫≫

映画

 一九二九年、江戸川乱歩の短編小説『芋虫』が『新青年』に掲載された。戦争で四肢と聴覚と生態を失った軍人とその妻の異常な夫婦生活を描く。角川文庫版の解説によると、「最初は『改造』のために書かれたが、既に左翼的な評論の掲載で当局から睨まれていた本誌では危なくて発表できず、やむなく『新青年』に回されたものの、そこでも本文中の表現に伏せ文字を用いたうえタイトルを「悪夢」と改題して、ようやく日の目を見た曰く付きの作品である実際、表現後には左翼から反戦小説として絶賛されている。」 ≫≫≫

 

 後背から尻尾にかけて見事なまでに締まった筋肉。それは厳しく鍛え上げた人体に似て、まさしく芸術作品である。馬があんなにも美しい動物だと初めて知った私同様、そのサラブレットに一目惚れした小作農夫が、競売場で無理をして競り落とすところからこの物語は始まる。 ≫≫≫

 〝生きて日本に帰ろう〟 という映画の宣伝文句を見て、戦争中にアメリカ軍に投降することによって部下の命を救った軍人がいるということに興味をもったこと。また、それならあまりひどい殺戮現場を見なくてすむかなという思いで映画を観る事にしました。普段は、戦争映画はできるだけ観ません。実際に観てみると、自分の思い違いであったことに気づきました。戦争中ではないこと、自分の意思でアメリカ軍に投降したわけではなく、上官の命令という手続きを踏んでいたことなど、色々と考えさせられました。 ≫≫≫

 〝笠岡近辺に住む有志数人で、「一〇〇年の谺」の上映会をしようということになったのは、昨年の暮れも押し迫った頃でした。友人の友人が演出を手がけたという縁と、事件に連座して死刑となった森近運平が井原出身ということもありました。個人的にはほとんど知識は無く、森近の名も知りませんでした。ただ、若い頃読んだ住井すえの「橋のない川」で、天皇のババの話(天皇もただの人間とういうくだり)と、大逆事件のことが出てきますが、それは強く印象に残っています。 ≫≫≫

九条の会・01

 九条の会へ参加したのは、石井淳平さんが要請してくださったからです。石井さんは私の話を聞いてくださったことがあり,同じ志を持っていることがわかっていたので喜んで参加させてもらいました。まず、今日私が感 じたことはね、今度のトリノのオリンピック、あれがまさにナショナリズムの典型。というのは、勝つ勝つといってみなぼろ負けに負けているでしょう。あの戦争と同じこと。自分の国のことだけ考えて、よその国がどう
なっているかということが全然日本人にはわかっていない。≫≫≫

 私くらいの年配の人は、「私は軍国少年だった」「私は軍国少女だった」といわれるのをよく聞きます。つまり戦争を美化して、お国のために死ぬことはいいことだと教えこまれた人間だということです。私は日本が戦争に突入するまで、軍国教育は受けませんでした。少し時期がはずれていたのです。生まれが一九二四年で、戦争が始まったときはすでに成人していました。≫≫≫

 ただいま総選挙の真最中である。1分1秒を争う煩瑣のなかにいる。あと1週間すれば審判はくだる。この原稿を書いているいまも背筋の寒くなるような不安と焦燥のなかに身を置きながら、期待に胸を震わせながら、ゆきゆきて止まらざる心がりんりんと高鳴る。
 今度の選挙をどう闘い、情勢を有利に転換させるか。毎日毎日が研ぎ澄まされた刃の上を渡るような緊張で日を送っている。争点は明らかだ。迷いはない。ただ行動あるのみ。 ≫≫≫

 “じっと見つめると、ほら、他の豆とは表情が違うでしょ。平和の香りが、とても強いんです”

 こんな商魂たくましい特集を組んだのは『通販生活』(2003、秋号)。超大国アメリカの“お膝元”で、しかも政情不安つづきの中南米にあって、50年以上も前から軍隊を放棄し、非武装中立をつらぬいている国として今話題のコスタリカにあやかった。≫≫≫

 平成二五年の初頭から、面白い本に出会った。しかし、辞書を片手に、時々はメモを取りながら読み進まねばならない、というやっかいな本でもあった。そんなにも手間のかかる、しかも楽しい書籍にお目にか かることは滅多にない。たいていは難解すぎてちんぷんかんぷんか、改行が多くて内容もスカスカ(失礼 !)かで、どちらも適当に読み飛ばすのが通常なのだが、この本はそうはいかなかった。≫≫≫

沖縄・琉球

  岡山・十五年戦争資料センターの今年のテーマは「韓国併合100年」ですが、「併合」といえば、日本の歴史にはもうひとつ「併合」がありました。それより30年も前、清国と帰属問題が持ち上がっていた琉球を、明治政府が一方的に武力で威圧して「沖縄県」として取り込んだ「琉球処分」(1879年)です。
 この「琉球処分」について、いわゆる「8・15ジャーナリズム」の新聞紙面の中で、興味あるいくつかの記事に出会いました。 ≫≫≫

中国東北部

 二〇〇七年八月六日から八月一二日にかけて、中国東北部(旧満州)を旅した。うまれて初めての海外旅行であり、初めての中国である。 ツアーは観光旅行ではなく、『中国残留孤児の足跡をたどる旅』だったが、わたしにとっては違った意味あいの旅でもあった。 これまでも幾度か誘われていた中国だったが、なかなか一歩を踏み出せないでいた。やっと決断したのは、わたしが北朝鮮で生まれたという事実と戦後すでに六二年がすぎてしまっているということである。関東軍の軍人だった父がいた旧満州。母が引き揚げる時四人の子を連れて乗車した新京駅(現長春)。想像でしかなかった中国を、現地に立ってこの眼で確かめてみたい。今行かねばいつ行ける。そんな気持ちで参加した一週間の旅だった。わたしなりに感じた中国をレポートしてみたい≫≫≫

国民保護法

 「皆押し黙って頭を上げる者は誰一人としてなく悲壮なものでしたよ。なかには顔を伏せてすすり泣く人もいた。肉親を戦場に送ったつもりで我々の血と汗のしみ込んだこの土地を御国のために差し出しましょうと、最後に拍手して散会した」(『倉子城』二一号)
 これは、倉敷海軍航空隊建設用地を接収するための説明会の様子です。軍関係者や憲兵、特高警察も同席していました。 ≫≫≫

中国残留孤児

   2002年12月20日、首都圏を中心に中国「残留孤児」637人が、国を相手に「普通の日本人として人間らしく生きる」ことを求めて裁判を起こした。
 この訴訟は、総額約210億円の慰謝料を求めているが、そのねらいは、次の2点である。 1.国に長年の「孤児」政策の誤りを認めさせ、謝罪を求めたい。
 2.国に「孤児」の残された人生を普通の日本人並に生きられる生活保障制度の確立を求めたい。
 退職を約3ヵ月後に控えて、その後の生き方を考えていた私は、このニュースに接し、身体の芯が疼いた。
≫≫≫

戦争遺跡

  去る三月九日、今年八月に第一七回戦争遺跡保存全国大会が予定されている、岡山県倉敷市で、現地実行委員会が開かれ、戦跡ネットの事務局として同席させていただきました。現地実行委員会のお骨折りで、今年の記念講演はドイツから講師を招くことが計画されています。今回そのプレイベントとして実行委員会に先立ち、南守夫さん(戦跡保存全国ネット運営委員)のお話を聞きました。  ≫≫≫

中国強制連行

   それは、突然、感じとった瞬間だった。連行された人や遺族は、尊厳や名誉を回復していない! 生還者の一人、楚方利さんの「恥ずかしい」と漏らした一言。それは、楚さんが家族の目前で両手を縛られ拉致されてから現在までつづく胸の奥の澱を、そして私を含めこれまで放置してきたものたちの責任を、私に気づかせた。 ≫≫≫

その他

  明治・大正・昭和を生きてきた久津見房子(一八九〇 – 一九八〇)なる女性が、岡山県出身者で治安維持法犠牲者であったことさえ知らなかった。日本共産党とも関わりがあったこと、特に一九二八年の三・一五大弾圧により、女性として初めて治安維持法違反の適用を受け、有罪判決で札幌刑務所に四年間服役、のちにゾルゲ事件に連座、逮捕、投獄、未決拘留を含め、獄中生活一〇年を超える、過酷な弾圧を受けていた人がいたことを初めて知った。  ≫≫≫

  私は『岡山の記憶』第九号、二〇〇七年、二二四頁に、太平洋戦争なる呼称の初出と思われる『官報目録』を紹介した。
  太平洋戦争とは、大東亜戦争の戦後版の呼称であり、当センター会則の「十五年戦争」の歴史認識とは異なる ≫≫≫

真田紀子

  3月7日から16日までエジプトへ行ってきました。近畿ツーリストの団体旅行ですが、何と40名もの人が参加していました。当日、関西空港で添乗員が「直前に何人かの方からキャンセルが入るかと思っていましたのに、全員参加で驚いています」と言っていました。  ≫≫≫