核兵器

 本書の著者・高橋哲哉氏は、『戦後責任論』(講談社、一九九九年)、『歴史/修正主義』(岩波書店、二〇〇一年)、『靖国問題』(ちくま新書、二〇〇五年)、『国家と犠牲』(NHK ブックス、二〇〇五年)など、アクチュアルな発言を続けてきた哲学者である。筆者も、本誌第四号(二〇〇二年)に、氏の前記『歴史/修正主義』の書評を試みたことがある。≫≫≫

 日本の原子力発電政策のエンジン役を果たした「安全神話」という幻想、かつての十五年戦争遂行においてアクセル役となった「神州不滅」の妄想、この二つの構図は相似形であると言わざるを得ない。「祭り」の後は、破滅であった。「三・一一」(東日本大震災)時に発生した東京電力福島第一原発事故の原因・背景として、「安全神話」の存在が多方面から指摘され、批判の的にもなっている。≫≫≫

 本誌別稿「マスメディアの『原子力』史」では、マスメディアの「原発安全神話」とのかかわりを、論調(紙面)に限って検証した。しかし、「神話」形成・醸成のテーマからすると、全体像が描けたとは言い難い。「紙面」をその時々の空模様や風向きなどで表情を変える海面になぞらえるならば、海底に潜む深層水脈があってもおかしくない。≫≫≫

  原発の地元である島根の方から、鳥取県が実施した国民保護実動訓練に関する『週間金曜日』(〇六年一一月一七日号)の記事をみて、このような感想が寄せられました。国民保護法はわかりにくい、という声を聞きます。国民保護訓練も、たくみに「有事」をかくし、「防災」の論理で住民を動員しようとしています。そこで藤田滋さんに、国民保護法の問題をわかりやすく解説してもらいました。≫≫≫

地図/戦時期

 「精密地図は利用価値大なる反面、敵側への入手の際、その利用価値もまた甚大なると言わざるを得ず。
したがってここに防諜要求と利用調和との問題に逢着する」。
これは陸軍省防衛課幸村少佐が全国地圖出版業者懇談総会(一九四三年六月)で民間地図会社の統合を主張したときの発言である(菊地正浩『「地圖」が語る日本の歴史』、≫≫≫

 岡山市内の軍事施設といえば、一九〇七年(明治四〇年)に創設された第十七師団関係といってよい。前稿「地図で読む戦時期の岡山(1)―地図から消された軍事施設(岡山市)―」では、第十七師団衛戍地と戦時改描の変遷について一一年以降の民間地図(主に岡山県立図書館所蔵)を用いて比較検討した。≫≫≫

自衛隊/情報戦
 東日本大震災の救援活動で自衛隊の好感度が大幅にアップした。しかしそれは自衛隊の大規模震災災害派遣や原子力災害派遣などの付随的業務に派遣された隊員らに対する評価であり期待なのだ。自衛隊の本来任務である防衛に関しては、国民が正しく評価できるほどにはその実態が明らかにされていない。

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 国家の「秘密」を探知してはならない、知り得た「秘密」を他に漏らしてはならない、「秘密」を広めてはならない。特に、外国に通報してはならない。「見ざる、聞かざる、言わざる」の"三猿主義"である。「秘密」とは「真実」と同義語であり、真実を、国民の耳目から遮蔽してしまおうとするものに他ならない。
これを「防諜社会」と、表現することにする。≫≫≫

 今年二〇一一年は、柳条湖事件(昭和六年=一九三一)から八〇年、アジア・太平洋戦争勃発(昭和一六年=一九四一)から七〇年に当たる。まさに「十五年戦争」期、そのものである。

 明治以来、平時であっても、言論・表現には多くの規制が加えられてきたのだが、戦役が発生すると、より具体的な形でコントロールされるようになる。「第一は、新聞は勇壮な記事で埋まり、批判記事など全く顧みられない、第二は、政府の許可のない限り、戦争報道は極めて困難である」ということになる。≫≫≫

 「メディア良化法」によって「公序良俗を乱す」表現が強権的に(武力行使もふくむ)取り締まられる近未来の日本を舞台に、不当な検閲から「本」を守るために「図書館隊」を組織した図書館員の戦いと日常を描いたエンターテイメント小説がある。有川浩作の『図書館戦争』だ。『図書館戦争』『図書館内乱』『図書館危機』『図書館革命』の4巻からなり、二〇〇六年から二〇〇七年にかけてメディアワークスから出版されている。このシリーズは、二〇〇八年現在で一二五万部を突破するベストセラーになり、同年星雲賞(日本長編作品部門)を受賞した。≫≫≫

 数年前、古い手紙類を整理していたら、奇妙な封筒が眼にとまった。

 色あせた小型封筒の下部に、黒い英字が浮いたセロテープがはってある。

 敗戦後、四、五年たった頃のもの。当時、十代半ばの私が、ペンフレンドとかわしていた私あての封書だ。

 先日、竹内和夫先生が「戦後、進駐軍がやってきて、封書を検閲していた時期があった。私も、外国から来た手紙を読むアルバイトをしたことがある」と言われ、「あ、あの封筒も」と思い、あらためてとり出して見た。

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 進駐軍要員として一九四六年(昭二一年)一二月から二年と三か月はたらいた。しごとは、日本国内外にゆきかう個人の手紙を開封して、必要なら英語に訳してGHQにとどけることであった。一九四五年、日本敗戦にともなって、沖縄をのぞく、すべての都道府県に占領軍が進駐し、年末には四三万人に達したという(竹前栄治著『GHQ』、岩波新書、一九八三年、以下『GHQ』と引用)。GHQ(総司令部 GeneralHeadquarters)は、皇居の濠端の第一生命ビルを本拠とし、G2(参謀第二部 General Staff2 ) に所属する民間検閲支隊( CivilCensorship Detachment)は東京駅前の中央郵便局を接収して郵便の検閲をはじめた。≫≫≫

 

 占領軍のメディア政策の基本は、日本の非軍国主義化・民主化という占領目的達成と占領地の治安維持の二つであった。このため、「言論の自由」実現と、厳しい「統制」という矛盾を孕んだものになった。本稿で絞って論を進める「検閲」は、「民主主義の盟主」を標榜する占領軍にとっては、占領政策の遂行上必要ではあったが、明らかに〝負〟の領域であった。「いっさいの 表現の自由」にとって、「検閲」は根本的に対峙するものだからである。 ≫≫≫

空襲・爆撃

 筆者は二年前、本誌第一一号(二〇〇九年)にブックレビュー「『空爆(空襲)』について考える」を寄稿した。本書評はその続編にあたる。書評に入る前に、前稿の要点を確認しておきたい。

 「空爆(空襲)」という主題を取り上げたのは、筆者が亀島山地下工場の掘りおこしにかかわっていることによる。地域(倉敷・水島)にあった三菱重工業水島航空機製作所で製造された主力機は、いわゆる「一式陸攻」という「爆撃機」であった。また、亀島山地下工場は、米軍の空爆を避けるための「疎開工場」として掘られた。≫≫≫

 終戦直前の一九四五年六月二九日未明、米空軍B‐29一三八機が岡山市に焼夷弾攻撃をおこない、甚大な被害をもたらした。私は一九九九年より岡山空襲の死者調査に取り組んだが、「天皇皇后両陛下御下賜金」の袋を、中の金員そのまま大事に保管されているお二人に巡りあった。お一人は一四歳と三歳の兄弟を直撃で亡くされたお姉さんに当る方で、各々一円の新札が下賜されていた。≫≫≫

  「亀島山地下工場」の掘りおこしに長くかかわってきて、気になることがある。あまりに自明なことなのだが、三菱重工業水島航空機製作所およびその疎開工場のひとつであった「亀島山地下工場」では何を製作していたのか、にかかわる問題である。
いうまでもなく、主力機は海軍の爆撃機「一式陸攻」である。ここで製作された一式陸攻はどこでどう使われたのだろうか。あるいは、製作に青春の汗を流した養成工の願いを込めていえば、どこでどのように「活躍」したのだろうか。想像力を働かせてみる。≫≫≫

義勇軍

 満蒙開拓青少年義勇軍・内原訓練所(水戸市西部)には、「日輪兵舎」(図1)と呼ばれた円錐形屋根の独特の建物が約三百棟建てられ、内原訓練所の名とともに、この建物は全国に知られていった。
この建物はモンゴルの「パオ」に模したものと書かれた本もあるが、一九三七年、時の関東軍が「満州」で開催した「野戦建築競技会」において、古賀弘人氏設計・命名のものが特選入賞したものである(注)。それを「義勇軍」の創設者加藤完治が採用した。≫≫≫

歴史認識

 二〇〇九年四月二五日、標記のテーマで岡山・十五年戦争資料センター主催の研究会が開かれた。会場も慰霊碑に近い岡山市東公民館に設定された。当事者ともいうべき地域の人たちの参加を期待してのことである。参加者は約二〇人。次の三本の報告に基づいて、参加者の質疑討論が行われた。 ≫≫≫

藤田 滋/上羽 修

 憲法第二〇条
一. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
二. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
三. 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。  ≫≫≫

 

 『岡山の記憶』第一一号、二〇〇九年、四八・四九頁の難波達興氏の投稿を関心深く読みました。私もかつてこの用語に別の角度から関心をもって調べていたからです。論点をそらすようで恐縮ですが、私の投稿も含めて議論していただければ幸甚です。≫≫≫

 今年もまたあの九月一一日がやってきました。今年はちょうど五年目ということで、九・一一テロの犠牲者の様々な顕彰や追悼の行事が、アメリカを中心におこなわれました。また、テレビをはじめとするメディアでも、様々な特集番組が組まれました。日本では、一ヶ月前の、八月一五日の小泉首相の靖国強行参拝をめぐる議論もまださめやらぬ中でのことで、あのアジア・太平洋戦争での戦死者=犠牲者の顕彰と追悼の問題をダブらせて、こうした報道を見た人も少なくないと思います。≫≫≫

 昨年末(二〇〇七年一二月)、本書は第七回大佛次郎論壇賞(朝日新聞社主催)を受賞した。二〇〇一年に発足したこの賞は、過去ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(第一回、特別賞)、小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』(第三回)や中島岳志『中村屋のボース』(第五回)などが受賞している。著者は一九五七年生まれの韓国・世宗大学日本文学科副教授で、高校卒業後渡日し、慶応大学卒業後、早稲田大学大学院で博士号を取得した韓国人女性である。≫≫≫

中国残留孤児

  二〇〇六年夏、筆者は中国残留日本人孤児で岡山地裁に提訴している原告団長高杉久治さんと、教育研究全国集会で報告のため、埼玉県上尾市に向かった。昨年の七虎力開拓団を訪ねた『緑の大地』(1)の発表が目的だった。日本語での発表に自信がないといっていたが、日本語教室の成果と本人の必死の練習が実って上手に発表できた。そして、帰りの新幹線の中であった。≫≫≫

青木康嘉

 「岡山県龍爪開拓団跡地を訪ねる旅」を企画するにあたって、中国残留日本人孤児であった高見英夫さんと日本へ引揚げることのできた織田エミ子さん(旧姓高見。以後、旧姓で表記)や小林軍治さんに参加してもらうことが大きな目的であった。しかし、当時高見英夫さんは八歳、高見エミ子さんは七歳、小林軍治さんは三歳であった。はっきり「記憶」している年齢とはいいがたい。≫≫≫

 

石井広子/青木康嘉

 JR東岡山駅から車で一〇分ほど、高杉さんは岡山県営住宅の一角に現在夫婦二人で住まわれています。二〇〇八年一月一九日、近くの長岡集会所でお話を聞きました。聡明そうな深いまなざしが印象的で、とても六六歳とは思えない若々しさです。≫≫≫

 

  全国の裁判所で闘われている中国「残留孤児」訴訟は、昨年末から今年初頭にかけて、まさに「天国と地獄」を見た。勝訴に沸き立った神戸地裁の画期的な判決(二〇〇六・一二・一)。翌日の各新聞の紙面には「残留孤児、国に賠償命令」「帰国、違法に制限」「支援義務怠る」「六一人に四億六八六〇万円」という大活字が跳ねた。裁判所前で「勝訴」の垂れ幕を掲げ、「やっと日本人になれた」と、文字通り欣喜雀躍する原告らの写真には、涙さえこみ上げてきた。≫≫≫

  全国15ヶ所の裁判所で、2000人余の原告たちが闘った「中国『残留孤児』国家賠償請求訴訟」は、大阪地裁を皮切りに次々で判決が出され、神戸地裁判決を除いては原告側の請求は悉く退けられた。しかし、敗訴判決の中でも「新しい救済策、政治解決の必要性」が指摘され、政府・与党を動かし、2007年11月、新たな給付金制度などを盛り込んだ「新支援法」が実現した。これを受けて、各地の訴訟も相次いで取り下げられ、半世紀余に及ぶ「孤児問題」に一応の決着がついた。≫≫≫

憲法・法令

  岡山県総合グランドの桃太郎スタジアムから、よろけながら出てきた男女一〇名ほどが、今秋一番の寒波の中でうづくまった。まもなく宇宙服のような防護服を着た消防団員が駆けつけた。二〇〇八年十一月十九日、岡山県で初めての国民保護実動訓練がこうして始まった。スポーツ観戦中の県総合グランドで国籍不明のテログループがサリンをまき、一八五人の死傷者が発生したという想定で、内閣官房・消防庁・自衛隊・岡山県・市など三八機関約五〇〇名が参加。 ≫≫≫

  敗戦後まもなく、日本国憲法と日米安保条約という新たな国づくりを規定する相反する二つの枠組みがつくられまた締結された。それから半世紀近く、曲がりなりにも競合共存関係を維持してきた。しかしアメリカによる冷戦後の世界戦略見直しの一環とする一九九六年の「日米安保共同宣言」は、日米安保条約を大きく変質させ、憲法との共存関係を破綻に導くものであった。すなわち新憲法のもとで構築された「戦争を想定しない国」から「戦争を想定した国」へ≫≫≫

 

 「改憲」を掲げてしゃにむに突っ走った安倍晋三前内閣のもとで、二〇〇六年一二月に教育基本法が改正され、二〇〇七年六月には、いわゆる「愛国心」教育や教員免許の更新制などを盛り込んだ「教育三法」が成立した。安倍内閣の退陣により、急進的な教育改革は一息ついた感があるが、教育現場では、「選択と自己責任」をキーワードとした入試制度や教育課程の改変がすすめられ、「学校組織の活性化と教職員の資質・能力の向上」の美名のもと、機械的な教職員評価システムが導入されている。法の施行に先行してなし崩し的にすすめられる教育改革の実態について報告する。≫≫≫

 

 二〇〇六年四月二八日に国会へ提出された政府の「教育基本法案」は、一二月一五日に、自由民主党と公明党の賛成多数により可決され成立した。同日、「防衛庁設置法等の一部を改正する法律案」(防衛庁を防衛省に昇格させる法案)も成立し、海外派兵が自衛隊の本来任務に繰り入れられた。≫≫≫

  今年(2013年)5月28日、自民党教育再生実行本部の「教科書検定の在り方特別部会」が、東京書籍、実教出版、教育出版の社長や編集責任者に出席を要請し、教科書の編集方針などについて「聴取」した(以下、朝日新聞、5月30日、6月4日付)。「教育基本法や学習指導要領が変わり、教科書の記述が変わると期待したが、そうなっていない。より良い教科書を作るために考えをきかせていただきたい」(部会主査・萩生田光一衆院議員のあいさつ)との趣旨で開かれたもので、「非公開」で、自民党国会議員約四五人も参加したという。≫≫≫

 憲法改正について有力な憲法改正限界説によると、「憲法の根本をなしている基本原理を変更し、その憲法の同一性を失わせるような改正をすることは、その憲法の自殺であり、それは法論理的に不可能である」(『註解日本國憲法』下巻・1425頁)。この学説は1955年の保守合同で自民党の初代総裁に選ばれた鳩山一郎氏の心もとらえていた節がある。鳩山氏は総裁就任直後の1956年に「現行憲法の掲げる平和主義、国民主権主義及び基本的人権の尊重の三原則を変えることは憲法改正の限界を超える(要旨)」と、首相として答弁している(注)。≫≫≫

 安倍首相に関し、「表現・言論の自由」問題を語ろうとするとき、まず思い浮かぶのは、テレビ番組改編事件である。  20011一月30日放映されたNHKドキュメンタリー「ETV2001 戦争をどう裁くか―問われる戦時性暴力」。これは、市民団体の「女性国際戦犯法廷」の活動を通じ、体験者の証言などで、いわゆる日本軍の従軍慰安婦問題を取り扱った。 ≫≫≫

 第二次安倍内閣が、昨年12月26日に発足しました。安倍首相は、九条を改悪して自衛隊を国防軍とするのみならず、日本国憲法の全面改悪を、みずからの政治生命をかけてやり遂げることを決意して再登場しました。参議院山口補選で応援にかけつけた安倍首相は、4月21日に山口市で「私は第九六代首相だが、憲法九六条を変えたい。(反対する)国会議員が三分の一を超えれば国民は指一本触れることができない。憲法を国民の手に取り戻すことから始めたい」(4月22日付「朝日新聞」)と、7月の参議院選挙で九六条改憲を争点にして改憲の突破口とすることに意欲を示しました。 ≫≫≫

戦争遺跡・水島

  日韓日朝の交流、実測図づくりなどすばらしい成果と財産を遺してきた。市民のほうでも「亀島山地下工場を語りつぐ会」を結成し、高校生の活動を支援しようと地域の中で様々な活動を作り出してきた。そして少しの休みの状態にあった時、次のような問題が立ち上がった。「亀島山地下工場が埋められてしまうかもしれない」すなわち多くの市民の目から遠ざけられてしまうかもしれない事態が進行していたのである。≫≫≫

 

  倉敷市に住むようになり、亀島山地下工場の事を勉強してきて四年の月日が経った。亀島山地下工場などをはじめとして倉敷市内の戦争に関わる史跡などは、二〇〇三年倉敷市が発行した『倉敷の戦争遺跡マップ』にまとめられた。一九五六年に倉敷市が『水島の戦災』を発行して一七年目の年である。この一七年間、県立倉敷中央高校社会問題研究部が地域の民族問題を考える取り組みの中で掘り起こし、毎年一回は中に入り、地域の在日コリアンから聞き取りを地道に行い、記録し続けた。≫≫≫

 

 二年前、鹿児島市の地下壕で中学生四人が一酸化炭素中毒で死亡した事故はまだ記憶に新しい。その後、全国の自治体で地下壕の調査と再発防止策として壕の入り口をふさぎ子どもらが入れないようにするための事業が進められている。
倉敷市でも〇七年度当初予算に特殊地下壕対策事業費として三〇〇万円が計上された(資料一)。これは「亀島山地下工場跡の権利関係等の調査及び安全対策並びに玉島地区の特殊地下壕四箇所の埋め戻しを行う」(資料三)ためである。≫≫≫

 本稿は標題の書評である。当会のかかわりで、評者はかつて今回の主題に関連する書評と小さな報告を試みたことがある。一つは本誌第10号(2008年)での、朴裕河『和解のためにー教科書・慰安婦・靖国・独島―』の書評であり、「『あいだ』に立つことの困難」とタイトルを付した。もう一つは、当会の2012年11月研究会で行った、孫崎亨『日本の国境問題―尖閣・竹島・北方領土―』をテキストにした報告だった。≫≫≫

倉敷市水島に現存する亀島山地下工場は、 1941年に三菱重工業名古屋航空機製作所の分散工場の一つとして、岡山県浅口郡連島町(現・倉敷市)の旧東高梁川川尻を埋め立てて建設された水島航空機製作所(当初、名古屋航空機製作所岡山工場)の疎開工場の一つである。86年頃から高校生や市民団体「亀島山地下工場を語りつぐ会」により調査が行われ、亀島山を東西に貫通する5本の主トンネルとそれらを結ぶ南北方向の28本の連結トンネルから構成されていること、掘削は主に朝鮮人の強制労働によって行われたことなどが明らかにされた。≫≫≫

空襲と防空、防空対策の一環としての地下施設とは一対のものであり、空襲の可能性のある地域には必ずといってもいいほど防空用の地下施設が建設された。 1930年代、極東ソ連軍が大幅に増強し、ソ連軍機による日本本土空襲がかなり現実味を帯びてきた。35年には「昭和十年軍備改編要領」が発令され、東京・大阪・福岡にそれぞれ東部・中部・西部防衛司令部が設置され、防空管区が設定されたものの、陸軍内の防空に対する意欲はそれほど高くなかった(柳澤 潤「日本陸軍の本土防空に対する考えとその防空作戦の結末」(防衛省『戦史研究年報』 (11)、2008年) ≫≫≫

アジア

 岩波書店のシリーズ「思考のフロンティア」の最新刊である。このシリーズから取り上げるのは三冊目となる。コンパクトながら読み応えのあるシリーズである。本書は、三年ほど前に刊行予告が出てから待ちに待ったもので、評者にとっては二〇〇六年の最大の収穫であった。期待のすべては、すでにさまざまな媒体で接し、学び、注目していた著者米谷匡史氏にあった。≫≫≫

領土問題

 本稿は標題の書評である。当会のかかわりで、評者はかつて今回の主題に関連する書評と小さな報告を試みたことがある。一つは本誌第10号(2008年)での、朴裕河『和解のためにー教科書・慰安婦・靖国・独島―』の書評であり、「『あいだ』に立つことの困難」とタイトルを付した。もう一つは、当会の2012年11月研究会で行った、孫崎亨『日本の国境問題―尖閣・竹島・北方領土―』をテキストにした報告だった。≫≫≫

自衛隊・米軍

 2011年3月2日の午後3時過ぎ、津山市北部の穏やかな上田邑(かみたのむら)に突如として異常な轟音が響き渡り、真上の空を手の届くような低さで戦闘機が飛び去った。同時に井口貞信さん宅の土蔵が地響きとともに崩れ落ち、母屋の屋根やガラス戸などが破損した。土蔵から10メートルほどの庭先にいて命拾いをした井口さんの母親カズノさん(88)も、倒れ込んで伏せたまま「ここを通った」と後頭部を指して恐怖を訴え続けた。≫≫≫

その他

 『白熱聖戦』は現在の岡山県立岡山工業高等学校(以下、岡工)の前身である岡山県工業学校啓成部白熱隊の機関誌である。啓成部は運動部や文化部を組織する学友会に属し、一九三〇(昭和五)年に誕生した。白熱隊は啓成部に属し、啓成部の実行団体として一九三一(昭和六)年に誕生した。この史料は岡工の『七十年史』で紹介されており、主に『白熱聖戦 第一四号』一九三五(昭和一〇)年を元に白熱隊の成立や活動内容が詳述されている。≫≫≫

 本稿は、民主党政権の「地域主権改革」構想の考察を通して、九〇年代以降、「二大政党」の旗印のもとで進められてきている「日本改造計画」の現段階を明らかにしようとするものである。二〇〇九年八月三〇日の総選挙において民主党が圧勝し、九月一六日に鳩山政権が誕生した。総務大臣・原口一博、幹事長・小沢一郎といった面々で鳩山政権は船出した。≫≫≫

 ヒロシマの原爆を描いた『おこりじぞう』(山口勇子 新日本出版社 一九八二年)や東京大空襲を描いた『猫は生きている』(早乙女勝元 理論社 一九七四年)等々、戦争をテーマにした児童文学や絵本はかなり多く出版されており、学校図書館などで子どもたちに読み継がれているものも少なくない。私も現役時代、子どもたちへのブックトークや読み聞かせでそれらの本をよく使っていた記憶がある。≫≫≫